2002年01月の日記
*2005年11月修正版
能動的人格への恥辱にまみれた転換 : ヘタレた娘への衝動的な萌え
強気な娘は、たとえば怪談に恐怖するように、しおらしくさせてやればきっと萌えることだろう。感情を見せない娘には、心情を吐露してもらおう。笑って、泣いて、叫んでもらうべきだろう。
基調人格からの逸脱としての“瞬間的な”萌えは、ヘタレ・ダウナーな娘については、いかなる適用がなされるだろうか。これまでわれわれは、ヘタレ娘への萌えについて、基調人格からの逸脱萌えではなく、より持続的に展開される感情移入によってもたらされる効果をとりあげてきた。ヘタレたオーディエンスは、ヘタレた娘と出会った時、彼女ののドジぶりに自分の姿を見出し、感情移入してしまう。娘は階段から奇声を発しながら転落せねばならない。
ヘタレがヘタレな行為に及ぶのは当たり前なので、これは基調人格からの逸脱萌えにはあたらない。ただ、長期的に見れば、感情移入萌えは、ヘタレがヘタレをやめようとする動態にその本質があるので、その意味で、基調人格からの逸脱には当たる。ただし、瞬発的、衝動的な萌えとは、やや性格が異なるもののように思える。もっと持続的で広範な感情を鑑賞者に抱かせるのだ。
では、瞬発的な萌えとしての基調人格逸脱は、ヘタレ娘のいかなる行為に見出されるだろうか。演繹的に考えれば、普段ドジな娘が、ヘタレでない行為や感情を見せれば、そうなるはずである。
ヘタレな行為には、いろいろあると考えられるが、特にヘタレ娘の性格的な受動性に着目して議論を進めてみると、それは、例えば、自らの欲求を積極的に求める行為を避ける傾向としてしばしば見られる。マルチは、その仕様上の問題から、自身の欲求表出を拒む。『君が望む永遠』の遙は、一目惚れの相手に対する自身の欲求に困惑する。極端に考えれば、自分のようなヘタレに欲求を実現させる権利など享受出来はしない、などとする自虐的な思念をヘタレ人格の心理に想定することもできるだろう。
しかしながら、人格的成長の結果として、ヘタレたちがその欲求を表現するときがやってくる。もっとも、ヘタレ人格にとって、あくまでそんな行為は恥ずかしさを伴うのものだから、彼女は恥辱に身を震わせながら、「なっ、なでなでして下さい」とか「だっこして下さい」と発話することになる。萌えのごく標準的な風景である。
総合格闘技における実存性と作為性
格闘技には詳しくないので以下は適当な妄言であるが、ただ、気になったことがあるので、それを考えてみたい。
プロレスは、作為性を導入することによって、鑑賞に堪えうる物語を構成しようとする格闘技である。ただ、あからさまな作為性は、鑑賞者にその格闘技が所詮作り事であることを否応なく関知させ、白けさせてしまうので、その作為性は隠蔽されなければならない。プロレスにおけるよき試合とは、鑑賞者にその作為性を忘れさせる出来の良い物語のことである。作為性は、さらなる作為によって鑑賞者の目から遠ざけられる。
ボクシングや相撲など、プロレスよりもより限定された選択肢で、物語を形成する格闘技は、作為性を排除してなおかつ鑑賞に堪えられる物語を形成しようとする。作為性なき娯楽は、打撃技や組み技をひとつの側面に制約することによって達成されると考えられる。
一方で、総合格闘技(例えばプライド等)は、逆に制約をなくすことによって作為性なき娯楽性を目指した物語ではないか。制約が少なさが、ある種の実存性をその物語に付加させるのである。
ただ、実際のその様式は、寝技が主体になっている。打撃技も寝技も認可される制約の少ない総合格闘技において、後者が優位であることが発見されて以来、当たり前な帰結であるが、プライドでは寝技でふにゅふにゅやっている情景がおなじみになっていて、その手の知識に欠けるオーディエンスにとっては、何とも地味な印象を受けてしまう。実存的な格闘技という娯楽性が、その結果としての寝技主体という普遍的な娯楽性にはやや欠ける様式に喰われてしまった感じがする。
総合格闘技の世界では強いと言われてきた寝技であるが、最近では打撃技が復権する兆しもあると聞いた。寝技という実存性に対する、打撃技という虚構な物語の挑戦なのであろうか。
物語の構築コストと泣きスポット直撃問題
生身の女性は15歳以下しか愛せない男、同僚の徳島人Yは、ある日、ギャルゲーは泣けるのにアニメはなぜか泣けないと言う疑問を述べた。われわれの経験則から考えても、この発言は納得性のあるようなものに思える。確かに、アニメで鼻をかんだ記憶はない。
ギャルゲーが、泣きを追求してしまう文化的な土壌にあることはひとつの理由になる。そんな土壌が作られてしまった因由を考えることはおもしろいが、今のわれわれの手には余る。ただ、当たり前であるが、アニメや映画といった強制鑑賞システムが、泣きを全く追求しないわけではない。したがって、ギャルゲーの泣きを追求する土壌に、ギャルゲーが泣けてアニメが泣けないことの理由を求めるだけでは、まだ十分ではないようだ。では、どう理屈づければよいのか。われわれが「では、マンガでは泣けるか?」と徳島人Yに続けて問うたところ、彼はそれを肯定した。ここに、ひとつのヒントがある。
ギャルゲーやマンガに比べて、映画やアニメは極めてコストのかかる物語様式である*1。その高コスト性がゆえに、物語はより普遍的な鑑賞者の存在を想定しなければ成立し得ない。対して、それほどコストのかからないギャルゲーやマンガは、鑑賞者の対象をある程度絞り込むことができるのではないか。このことは、鑑賞者の泣きスポット発掘を容易にするだろう。ある程度、鑑賞者の嗜好を特定化できるからである。
ただし、鑑賞者の精密な特定には負の側面もある。嗜好の狭い特定化は、物語に偏った様式性、言い換えれば、硬直性をもたらす可能性がある。
普通、われわれは、少女マンガの一様式としてよく言及される「遅刻寸前で登校→衝突→衝突した相手が転校生」パターンは、あまりにも様式化されてもはや実際には用いられないだろうと考えるものである。しかし、恐ろしいことに、この様式はギャルゲーで堂々と使われていて、われわれを驚かせる*2。これは、ギャルゲーが払わざるを得なかった代償と解釈することもできるだろう。
『FFU』第14話の感想
アイの台詞が何気に荒廃していて、“ある人格のドジな行為をほがらに笑うみんな”という普遍的娯楽シークエンスにおいて、彼女はリサおねえさんに向かって「子どもに媚びた笑い禁止」とのたまったりする。この「子ども」とは視聴者(大きなお友だち)のことで、つまりメタフィクションか何か…、と思ってたら、後のリサおねえさんPTSD話数の伏線であったらしい。
ガジェット・組織・歴史
おたくを個々人の専攻に応じて三分類できるのではないか。すなわち、SF基軸とミリタリー基軸とファンタジー基軸である。それぞれの種族は、甚だ適当であるが、次のような特徴を有していると考えよう。
ガジェットへの嗜好。ゆえにガンフリークもここに分類される。自然科学。
組織機能への嗜好。鉄道、警察もここに入る『ラジオライフ』な世界。社会科学。ちなみに、90式戦車のスペックをそらんじることができても、その一個小隊を構成する戦車の数を知ろうとしない者は、SF族に分類されるだろう。
物語への嗜好。ミリタリーファンでも、戦史に特化すれば、ファンタジー基軸にはいる。『歴史群像』な世界。人文科学。『銀英伝』でありラノベ地帯でもある。
プロはそれらしく、素人もそれらしく : 『Hellsing』のシューティング・スタイル問題
別に熱心なガン・フリークでもないわれわれにとっても、『Hellsing』のカウンター・テロ要員の銃の扱い方は目に余る。訓練を受けている人間のスタイルではない。このことは、何度も述べた。では、室内戦の訓練を受けている部隊は、いかなる射撃姿勢を取らせれば、それらしく見えるのだろうか。スロバキア警察SWATのみなさんを見てみよう*1。
みさき先輩という発見(前編) : 『ONE』 [1]
夕焼けの屋上に目の見えない先輩が佇んでいる。この途方もない胸の高まりは何であろうか? まず、弱者に自己を投影して移入する心理がある。そして、相手に資質に左右されない娘の好意に、安逸と浪漫がある。
社会的弱者になりがちなギャルゲーユーザーの感情移入を誘うには、移入の対象を同じようなヘタレにせねばならない。感情移入は、他者に自己を見出す行為だからだ。では、みさき先輩に見出されるヘタレとは何か。それは目が見えないことだ。つまり、身体障害が、ドジなメイドロボが階段から転げ落ちたり、料理に失敗してパスタをミートせんべいにしてしまうような事と、同じ文脈で扱われている。
ギャルゲーを叙述するに当たっては、このように自己投影できる人格を配置するだけでなく、ユーザーであるところのヘタレ男が、ごく自然に女性の好意を被ることができるような語りも要請されるだろう。デフォルトとして、かわいい幼なじみを設置してお茶を濁すのでは興ざめである。かわいい幼なじみなど、少なくともギャルゲーユーザーを取り巻く世界には、存在しないからである! われわれは前に、そんな状況を形成しうるのに有用な人格として、メイド・白痴・妹を挙げた*1。
みさき先輩が、われわれを視覚的に観察できないことは、この“ヘタレもてもて状況”の形成について重要な意味を持っている。目の見えないみさき先輩は、こんなにも汚らしいわれわれの容姿を認知することがないがゆえに、われわれを愛してくれるかもしれない。もっと恥ずかしい議論をしてしまえば、「目に見えるものが全てではない」というようなこの手の障害を持つ人格に特有の思考様式によって、みさき先輩はわれわれに内在する“目に見えないが何か心的に良性なもの”を勝手に発見して、勝手に愛してくれるかもしれない。視覚障害人格は、鑑賞者のこのような幻想的自惚れを程良く刺激してくれるのだ*2。(つづく)
みさき先輩という発見(後編) : 『ONE』 [2]
視覚障害というドジ因子を背負わされてしまったみさき先輩は、それを気にもとめず校内を彷徨う。この図は、ヘタレなオーディエンスの精神をなよなよにしてしまう。それが、感情移入萌えの本質、つまり成長志向のヘタレ動態曲線そのものを体現しているからである*1。
ただ、前に触れたように、ヘタレが成長し続けたら、ヘタレではなくなってしまうので、感情移入萌えは消散してしまう。したがって、成長の先にはなにかしらの挫折や、その人格自体の消滅を設置する必要性を前に議論した。
みさき先輩にとってのヘタレ脱却地点は、街へ出ることである。校内は自由に彷徨えても、街に出ることは恐怖する彼女は、ある日、初めて主人公に連れられて、街に出る。そこで彼女は挫折を経験する。
『ONE』は、自己の作為性を発見して混乱する人格の物語である*2。同時に、自己消滅までの期間を認知したキャラクターの有り様を扱う難病物でもある。このような物語で鑑賞者の感情移入を誘うのは、じぶんが余命幾ばくもない非人間だと知った人格であると思われる。『ONE』では、主人公がその作為的非人間人格であることが訳も分からず突然判明して、鑑賞者を半ばあきれさせるのだが、他のギャルゲーの例にも漏れず、主人公はかなりアレな人格なので、それがわかったところでオーディエンスには何の感慨もわかない。
むしろ、その主人公を失うことによって挫折を経験し、独り取り残されるみさき先輩の方に、オーディエンスの感情は向けられる。そして、みさき先輩の真の恐ろしさはそこから始まるように思う。みさき先輩は、一生戻ってこないかもしれない彼を気丈に待ち続け、新たなヘタレ動態曲線を演出するのである。
その破壊力は言語を絶し、正月元旦の夕暮れ時に、われわれの頭は真っ白になってしまった。
ダレない物語のために : ワン・シーンの適正持続時間
小津安二郎の『麦秋』('51)が、だいたい何分ほどの各シークエンスで構成されているか、調べてみた。結論としては、それら小さな情景の持続時間は平均で3分から4分程度であり、起承転結の各冒頭で、物語の大まかな方向性が提示されることが理解された。
ほかの小津作品の類にもれずに、『麦秋』は過ぎゆく結婚適齢期と売れ残りへの焦燥から始まる。物語冒頭期で、原節子は結婚を迫られる数々のイベントに遭遇する。以下、物語冒頭における各シーンの構成時間を見てみよう。
トラウマ再現 : 『ONE』 [3]
里村茜は感情抑制型の娘である。『ONE』は、主人公の喪失に直面した娘たちの感情的反応を楽しむ物語であるが、茜のケースには、他の娘どもと比べ、すこし特異なところがある。茜は幼少期に幼なじみを失う経験をしていたのであり、だから、主人公を失ってしまう際、「今度はもっと涙が止まらないの〜」となってしまい、オーディエンスをヘロヘロにしがちである。
ある人格が過去に経験した事象が、その人格に再襲来する物語の様式を、トラウマ再現と名付けよう。ただ、トラウマ再現は、それに直面した人格に限定する必要はなく、その人格の身辺に存在する他者が追体験し得るものでもある。例えば、『Kanon』における主人公(なにかを失う人格)と真琴(失われる人格)と天野(過去になにかを失った人格)の関係である。茜は、過去と現在の時間軸に沿って、『Kanon』の主人公(現在)と天野(過去)に分離したと解釈することもできるだろう。
他の例として、前に議論した香港警察映画の『ノワール』を見てみよう。逃走する犯人を撃ったつもりが、幼児を誤射してしまったダニー・リーだったが、物語の終盤になると、今度はダニー・リーの相棒が逃走する犯人を撃とうとする際、子どもがそこを横切ってしまう。この手の物語では、よく使われる様式で、ダニー・リー自身ではなく、その相棒がダニー・リーのトラウマを追体験してしまう形になっている。
別人格のトラウマ追体験は、親子関係をダシに使う物語の手法においてもよく見られる。先週の『シュガー第15話 ちっちゃなお客さま』、今は亡き母親の目の前で木から落下したことのあるサガが、今度は母親の立場で同じ追体験をするケースや、同じく先週の『FFU・第16話 氣現獣〜えがおのむこうに』、自己犠牲で村を救った母親と同じように、仲間を助けようとするリサおねえさんなどなどである。
非ヘタレおねいさんとヘタレおねいさんの交叉 : 『ONE』 [4]
感情抑制人格である茜においては、鑑賞者の感情移入を誘うために、押さえつけられた感情は物語の進展に従い、解放される必要がある*1。
茜は、この法則通り、やがて多様な表情を鑑賞者に提示する。主人公にじっと見つめられた彼女は、恥ずかしそうに視線をそらす。やがてかわいい笑顔を見せ、そして慟哭する。萌え萌えしないこともないが、ここまで予定調和だと少しばかり興が冷めてしまうかも知れぬ。その基調において非ヘタレ人格であるこの手のおねいさんのダウナーな成長が、われわれの萌え受容帯域のやや外縁に位置しているような感もある。
感情抑制人格が基本的に非ヘタレ娘に分類されるのなら、ドジな娘は、逆に感情を抑制しない人格として定義づけられるのではないか。たとえば、ドジなメイドロボはしばしば強度の感情放出を行うもので、時に失神するほど放埒である。
ドジ娘たちは、ヘタレを脱しようと行為するのが常である。その脱出行為は、奇声の抑制や涙を笑顔で隠匿しようとする行為のなかで達成されるはずだ*2。これらのアクションは、感情を抑制する行為と考えられる。ゆえに、coolな娘が感情抑制から感情解放人格に移行することによって、萌え人格を目指すのに対し、ドジ娘は逆に、感情解放から感情抑制人格に転換することによって、鑑賞者の感情移入の対象になりうると思われる。それは、鮮やかな対比と言ってもよいだろう。