2003年8月の日記
狂人の視点で語られる物語は、多くの鑑賞者にとってしばしば理解不能である(狂人映画と作り手の距離感)。従って、物語は狂人を他者の視点から眺める事によって、鑑賞者の理解の範疇に収めようとする。此処で云う他者は、特定の人間でなくても構わない。物語自体の抽象的な構造、例えば、物語がその成り立ちを依っている価値観や世界に対する解釈が狂人を眺める他者であっても良い。要は、鑑賞者の広く共有するコードによって狂人は解読されて提示されなければならない。ただ、抽象的な思考よりも具体的な他者の方が、対話が他の表現様式に比較してひとかどの地位を占有する傾向にある物語というフォーマットに於いては効果的で、鑑賞者の理解を得られやすいかも知れない。
狂人を照射するこうした他者の類型に関する例を、わたしどもはしばしば北野武諸作品に見出せる。彼の物語が一定の普遍性を保有できたとすれば、狂人を解読する他者の扱い方にひとつの鍵がある様に思える。
北野武に於いては、主人公の増幅する狂気は他者視点への傾注とセットにして語られる。逆に、主人公の狂気が緩和されると他者の視点は後退して複数の人格へ分散する。主人公の狂気が突出する『3-4X10月』は、沖縄でその主人公と出会い様々な凶状を体験観察して酷い目に遭う傍観者の成長物語でもある。狂気を解読する他者が物語の最終的な主軸を占めなければならなかったのである。
狂気性がそれよりもヒートダウンする『ソナチネ』では、傍観者の視点はかなり後退する。その代わり、主人公は寺島進、大杉連ら複数の他者の視点に晒されより立体的に解読される。逆の見方をすれば、狂気の軽減はその解読が非常にうまくいった証拠ともとれる。狂人を扱う他者の複数の視点は、『HANA-BI』にも継承されそこで結実する事になる。
他方、『BROTHER』になると、狂人を鑑賞者の理解に導く筈の傍観者・観察者が暴走し、鑑賞者の理解の射程からの逃亡を試み始める。主人公の不可解な破滅願望を解釈しなければならない他者が、より莫大な破滅願望を溢れさせる。結果、主人公の破滅願望が相対化され、その狂気が緩和されるユニークな事態に陥ってしまう。変人たちに代わって本来であるならば寺島進な視点を演じなければならなかったオマー・エプスも、ラストカット直前に至っても主人公の理解不可能性を高らかに歌い上げる。何とも無念極まりないではないか。
おねいさんの開拓者精神な攻勢的才気は、とうていわたしどもの共有する気質ではあり得ないが、だからといってそんなおねいさんを蔑ろにする必要もないだろう。おねいさんの
才幹は繊弱なわたしどもの守護と溺愛の為に費やされなければなるまい。わたしどもを甘やかすにはそれに足る能力がおねいさん側に必要である。詰まり、おねいさんは白痴であってはならない。だが、おねいさんの才気はわたしどもではなく遙か外宇宙に向けられる。非道いよ。
「勉強よりもともだちを作る方が大切ですわ、おにいさま」
「勉強できる奴に限ってともだちがたくさん居たりするんだよ。一体どうなっているんだ。誰か責任をとって呉れ」
喩えて云うなら、人生は台風前の素敵な青空の様なものだ。
日頃ギャルゲー臭いと思っていたI WiSHのCDを買ったら、二曲目の出だしが『加奈』のEDテーマと同じすぎで腰を抜かした休日であった。もっとも『加奈』の方も森高千里がネタ元臭いのだが。
どうしてこのお話が転がれないのか色々と考えた。
幸福な家庭環境に育まれた元気娘が前向きに玉砕しては、トラウマ発見とか人格変動や人生の動機などと物語は無縁になる。よって、感情高揚は成しがたい。だが、すべての物語が娘の不幸な過去や強気な娘が駄目になる情景を語って、鑑賞者の感情高揚を勝ち取る訳でもない。理解の手掛かりは、娘ばかりに目の行きがちなこのお話が実はバディムービーな様式に則っている事にあるようだ。
『AIR』は美鈴ちんと主人公男のバディムービーであるが、主人公男が喪失した段階で、今度は美鈴ちんとおかんのバディムービーになる。が、おかんはやがて美鈴ちんを喪う事になる。
『スケアクロウ』でジーン・ハックマンはアル・パチーノを失い、『真夜中のカーボーイ』ではジョン・ボイドはダスティン・ホフマンを失う。また『加奈』は兄貴が妹を失ってしまう物語である。だが、ティプトリー・ジュニアは元気娘を相棒の病原菌もろとも葬ってしまう。
喪失の伴う物語のもたらす感情喚起は、それを経験する人格の心情模様から生まれる(難病物の快楽)。失われる当人に焦点が当てられると難病物になるが、相棒映画のフォーマットでは、当人よりもそれを失ってしまう周縁の人物の方が物語の最終的な中心軸を占める。自分が居なくなってしまう事ではなくて、他者を失ってしまう事に伴う感情が問題とされる(記憶の過剰な喪失を巡る本当に忘れてはならないものについて)。だが、相棒の喪失の受け入れ先となる人格までが同時に無くなってしまえば、喪失の経験は行き所を失ってしまう。その経験は相棒とは言えないより疎遠で広範な人々に共有されるにとどまらなければならなかったのである。
ある種の過剰がひとびとの精神的な許容を軽やかに飛び越えた時、その過剰は転じて快楽にも似た感覚になりうる事がある。そうした事象は“burnt shit(燃焼した糞)"と一般に呼ばれ、心理的な防衛メカニズムの一種ではないかと解釈されている。
今日は十五時間寝たが、まだまだ寝られそうだ。素晴らしい。しぬ。でも死にたくない。
妄念の彼岸
小池田マヤ『バーバーハーバー』読書感想文(前編)
幻覚・妄想の発端は、個々人の精神の活動や生活の在り方によって様々である。その多様性は、人類の豊穣な感受性の賜物として肯定して然るべきと云う価値観も確かに存在するのだが、幻想による忘我の頻度が過剰になり、内容が社会常識の通念から逸脱を始めると、ネガティヴな滑稽感が漂い始める。
突発する幻覚の高まる頻度は、映像的な疾走感を物語に付加せしめる役割をしばしば担う(例えば『ラスベガスをやっつけろ』『レクイエム・フォー・ドリーム』)。他方、頻度の高さが妄念を発しせしめる事象の無差別性と関連する場合、言い換えれば些細な事にも反応してトリップが勃発する様になると、頻度自体が滑稽感に転化する。
妄念は自己発現の契機を求めて、様々な事象を消尽する結果、やがて契機となるネタに困る様になり、内容はこじつけを応酬する体を成し始める。高頻度に伴う妄念の恐慌な内容は、さらなる滑稽を相乗を保証するだろう。
三十男が、森羅万象にメルヘンを見出して、暫し忘我する情景に如何なる評価を社会的世間は与えるものなのだろうか。それは、ひとえに彼の夢見る内容に依存するものであるが、例えば、病弱娘が「わたし死んじゃうんだよね」と慟哭する景色にメルヘンを感じるわたしどもに、世間は変態と云う烙印を呉れてくれる。
この種のメルヘンは解説してしまえば感動の先取りである。全く文脈を共有していない他者に言語を費やして、わたしどものメルヘンを理解せしめる事は恐らく可能な事であろう。だが、理解が愛と平和に直に結実してしまうほどわたしどもの住まう世界はメルヘンではなかったりもする。理解がさらなる断絶を招来する事もある。
この空の下にはわたしどもの様な変態を受容して呉れる優しいおねいさんは存在しないのか知らん…。わたしどもは遠い目で広い青空を見上げざるを得ない訳だが、『バーバーハーバー』は、この物悲しいほどに永遠な主題と世間という怪物がぶつかり合う物語である。同時に理解不能という壁に敗北する世間が、絶望の最中に見出すあの気高い感情高揚の様式に関する物語なのである。
(つづく)
理解の射程に入らない好意
小池田マヤ『バーバーハーバー』読書感想文(後編)
気の強い娘がダメ男への衝動的な好意を押さえきれずに錯乱する情景は、わたしどもを転がせしめる上で、極めて古典的な手法であるのだが、その核心にあるのは、ダメ男を愛すると云う自己の倫理に反し且つ世間体の気まずさを含有する恥辱な行為と「でもでもラブラブなのよ〜〜」と云う致し方のない衝動との拮抗を巡る心的な混乱であった(「粋」と「萌え」)。
社会的自意識に由来するこの錯乱が、愛情への生理的衝動に敗北する時、物語は次なる階梯へ向かう。らぶらぶ光線のリミッターが解除されてしまうのである。
恋愛に伴う恐慌行為には、他者の自己に向けられたらぶらぶ光線が関知されうるか否かで様々な形がある(狂態の片務性と共務性")。らぶらぶ光線が可視光線帯域に達した場合、そしてそれがとんでもない狂操を基に発せられていた場合、今度はらぶらぶ光線を被った人格が恥辱を伴う混乱のただ中に放り込まれる可能性がある[注]。恥ずかしさという感覚を、この種の悶心が生む快楽を成立させている感情だと見れば、特に主観的な視点が強調されるギャルゲーの様なフォーマットで、強大ならぶらぶ光線を被って悶える人格の物語は有効であろう。主観視点であるが故に、主人公の恥辱感(=快楽)が、直に鑑賞者に伝わるからである。
しかし、どんなに苛烈ならぶらぶ光線もそれが全く関知され得ない不幸な物語もある。この物語で小池田マヤの用意した光線を遮断する絶望の壁は、三十男の立て籠もる妄念の殻であった。なかなか届かないその想いは、鑑賞者をして「早く気づいて呉れ、どきどき〜」と転がりせしめたりする訳だが、この快楽がやがて苛立ちに変わるにつれて、鑑賞者の関心は増幅する情愛の衝動を制御できず、ますます混乱し疲弊して行くおねいさんに寄せられる。
鈍感は他者の精神への攻撃と等価になると云う意味で犯罪であるが、他者への無関心が自己の内面への過剰な意識の傾斜配分から産まれていたなら、この図式はさらに罪深い色彩になる。一方で、他者や外的な世界への過剰なのめり込みの果てにおねいさんが見いだすのは、過剰になって行く自意識の世界である。
わたしどもの放り込まれた世界が多分に自意識の写像であるとすれば、地平線の向こう側にあるのは自意識の闇である。だが、その逆はないのだろうか。潜行した自意識の向こう側には、他者と世界の広がりが待ちかまえているのではないだろうか。
おねいさんは世界の果てに混乱する自己を発見した。そして、妄念を漂流する三十男は、おのれのメルヘンの中に狂乱するおねいさんを発見しようとする。物語はその時、またさらなる段階へ達する事になる。
[注]
「キスしちゃいますよ」→「ほええ」な感覚。