2004年04月の日記
安達哲『バカ姉弟』は、わたしどもの忘れがちな公共の利便性というものをしばしば語る。姉弟は迷子と称して警察車両を送迎に利用し、留置場を寝床にする。
公共財のフリーライドと考えれば、リストカットをした自傷癖の娘が、障害年金と生活保護で我が世の春を謳歌する行為と、余り相違がないように思う。が、自傷癖の娘が世間一般の憎悪を享受するのに比して、姉妹の営為は牧歌的な物語の契機を成す。この違いは何なのか。おそらくは、物語を可能にする特異な生存のあり方の違いであり、かつその保障に関わる哀しき貧困の問題なのである。
人間は生活に追われ出すと何事も考えられなくなる。これは社会的就業者の切ない実感だ。他方、人間は働かなくとも食えるようになると、色々な事を考え始めて、奇抜な行動を開始する。毎年、5000ルーブルが領地から上がってくるドストエフスキー的景観や、実家がたいてい地主な漱石的景観が物語を可能にするのは、キャラクターに対する経済的保障に他ならない。文明の不安を覚えるためには余剰が必要で、貧困は常に思考を形而下へ誘う。資産家の親に寄生するのも、路上生活をするのも、生活に労働が余り必要でない点では同じである。違うのは、世界を抽象化する能力に差の出る所。前者は花が咲いても恐怖を覚え、後者は、雁屋哲が密かな悪意を持って語るように、その持てる無限の時間を試食品の探索に投下する。
物語を構成しうるバカ姉妹の飛躍する日常が、資産家の家庭に生まれた彼らの環境に決定的に依存している事をしつこく描画する安達哲の眼差しは冷酷だ。物語を可能にする行動の逸脱は金満であるが故であり、対してリスカ娘に物語の達成を失敗せしめるのは、貧困であるがための行動の狭小なのだ。
『バカ姉妹』はやがて、ひとつの才能が育まれる過程について言及を始める。宮崎駿を量産するには、けっきょく資本家を量産せねばならないとするその帰結は、妙に即物的でまた妙に業が深い。詰まる所、如何にも物語的である。
木村先生の奥さんが天使であるのに違いないように(『あずまんが大王』)、『モンキーターン』洞口さんのきれいな奥さんも天使であると断言して然るべきと言わざるを得ない。わたしどもは今すぐその胸に飛び込んで、撫で撫でしてもらわなければならないだろう。彼女たちは、事後的、結果論的とも言うべき強烈なヘタレもてもて人格なのだ。
木村先生も洞口さんも、性格や容姿に造形的欠格を抱えるむくつけき中年おやぢで、異性の好意からほど遠い距離に存在している。そんな哀れな中年おやぢでさえも愛し得たらぶらぶ光線帯域の広範さは、きっと哀れなわたしどもをもカヴァーして呉れるに相違ない→いや〜ん、らぶらぶ――という理屈。ある種の性格美人へのらぶらぶという能動的契機と、その性格であるが故にわたしどもを愛して呉れるかも知れぬという受動的契機が混合している。
今の洞口さんの奥さんも良いが、回想の若い頃の奥さんはもっとらぶらぶ。線撮り状態の彼女に大興奮で、仕事中、動揺を抑えるのに大変な労力を要するのであった。若い奥さんバージョンの設定が出ないのが残念極まりない。
幼女愛好癖者は、常に多様なストレスに晒され疲弊する。倫理の違反や司法当局者の監視へ怯えるだけでは済まず、その恋愛の宿命的な終焉に絶望せねばならぬ。幼女はいつか幼女ではなくなってしまうのだ。
このような恋愛の不安は、古典期のギリシャで勃興する青年愛へのプラトン的な省察と似ている。青年は加齢すると、愛の交渉での恥ずかしくない対象たる資格を失ってしまう(Foucualt[1984=1986:253])。正太郎コンプレックスは、時間がかりそめである事への悲嘆を暗に含んでしまう。そして、古代のギリシャ人は、関係の昇華を志向する事によって、時間の限定された恋愛を解放しようとした。愛欲から愛情への移行である。
ところで、幼女愛好癖者が幼女を脱しようとする彼女と関係を続けたいと欲するとき、彼は恋愛一般に付きまとう普遍的な目眩に襲われるかも知れぬ。果たして己は幼女という属性にらぶらぶなのか? それとも彼女自身にらぶらぶなのか?
この問題は、やや異なる形で拡張するに及んで、特に幼女愛好癖に限らず不安を醸成する。先のテクストで言及した如く、中年おやぢの優しい美人妻にわたしどもはらぶらぶなのか? それとも中年おやぢを愛して呉れそうなおねえさんだったらわたしどもも愛して呉れるのか知らんという可能性にらぶらぶなのか?
夕焼けの屋上でみさき先輩と出会って、瞬時に激高する生理的な演算空間の様相は謎に包まれている。だが結果的に言えば、その高揚は、不可解な感情を巡る解答のない解釈を探索して一瞬のうちに過労するネットワークノードの悲鳴なのかも知れぬ。
木村先生や洞口さんの奥さんが、綺麗でやさしいおねえさんである事は、彼女たちの広大ならぶらぶ光線帯域を示唆するだけにとどまらない。それはパートナーたる木村先生や洞口さんの隠匿されてまだ発見せざる人格属性の存在をもほのめかす。彼女たちは、未だわたしどもの知る事のない彼らの人格に、らぶらぶ光線を発射せざるを得なかったのだ。よって、むくつけき中年おやぢに寄り添うやさしいおねえさんは、中年おやぢの人格を発見する物語を語り始める。『モンキーターン』の18話はそんなお話だ。
古池さんの語るが如く、家庭を顧みない洞口さんは過労で入退院を繰り返す奥さんを放置する鬼のような人で、マザコンの息子、雄大はそんな父親にネガティヴなファザコンモードである。対して洞口さんは、「おまえをたおすんだああ」と無邪気な息子に「ちっぽけな目標だなあ」と鼻で笑い、物語とわたしどもを浮かせる。これでは海原雄山の法則が発動するのもやむを得まい。
かくして奥さんは息子に過去を語り、洞口さんの秘匿された人格をわたしどもに開示する。実は家庭を超顧みて奥さんが超心配な洞口さん。このわかりやすさが興奮を誘発せしめる事は云うまでもない。ついでに、前に述べた如く、若い頃の奥さんもたいへんだ、うおおお奥さん――と深夜に職場で放言していたら、アレは人妻一般が好きなのかと色彩設計のO内さんに誤解を受けた。
中年おやぢとやさしいおねえさんが盛況するなかで、物語は、孤独な雄大と家族に包囲され脳天気な憲二との対比を残酷に語る。コミュニケーションという才能が支配する世界へ挑戦する孤立した親子の物語を語り始める。雄大はたったひとりで父親のペラ小屋に向かい、ペラを叩く。洞口さんは夕焼けの屋上で世界と人生について語りを始める。I田先生もおいしい話数を取ったものである。
素子さんの情緒は、かなりおかしくなっているのではないか。たまたま『攻殻』を観ていると、素子さんが何かあるたびにニヤニヤして気味悪い。「あ〜〜ら、さるおやぢ」とニヤニヤして、栓抜き見つけてニヤニヤで、SASの隊員さんを色仕掛けでニヤニヤして(カウンターテロリズム要員にそんな事するなんて、狂っている)、何かもうたいへんである。原作では説諭臭いおばさんであったが…。心労なのだろうか。それとも、義体化はナルシズムを促進するのだろうか。
中年おやぢには世界を語る特権がしばしば与えられる。『インフィナル・アフェア』を観ると、初っぱなからおやぢが世界と人生について、アップショットで大語り。一発でやられる。
説教は、慎ましやかに、物語の終末に何気なく発すればよいと言う良心的社会通念を中年おやぢは破壊し、即座に、ファーストカットで世界を語らずにはいられない。『パットン大戦車軍団』のジョージ・C・スコットみたいなものだ。
物語という表現のフォーマットの中にあって、世界を直接に言及する行為はエレガントではないとされる。世界はあくまで、人間の動作、レイアウト、モンタージュ、劇伴によって、間接的に語らねばならぬ。しかし、中年おやぢは我慢が出来ない。彼らにとって、説教は地球内部にある溶融状態の造岩物質の様なもので、抑制をしたら自壊してしまう。噴出するマグマの如く世界を語る中年おやぢは、この世の事象の中でも、美しさの最たるものである。
恐ろしい事には、中年も度が越えてしまうと、歩く説教になってしまう。のべつ幕なく人生を語るという事ではない。『インフィナル・アフェア』のアンソニー・ウォンのように、ただ黙って歩いているだけで説教になってしまう恐ろしいまでの至福が到来するのだ。『非情の掟』でも物語を浮かせ放題のアンソニー・ウォンであったが、ダニー・リー様の猟奇地帯を抜け出して、よくも斯様な境地まで至ったものだと感嘆に尽きない。
ご主人様を保護するだけではなく、時として彼に甘えたりもする雪さんは、メイドさんという職業が要請する規範に反しているかも知れぬ。この批判はシナリオ工学上の不満を反映したもので、職業規範に全く躊躇せず御主人様にらぶらぶ光線を発射しては、規範に反する事に由来する物語な葛藤を描き得ない。
シナリオ工学上のこうした要請の他にも、雪さんにはまた異なる領野からの批判を想定する事も出来る。役割と人格が分離せねばならぬとする社会倫理からの要請である。
雪さんのようなやさしくてもうらぶらぶで堪らないようなおねえさんであれ、そうではないおねえさんであれ、メイドさんという役割を果たす際には、メイドさんが果たすものとされる機能を充足せねばならない。その役割を成す人格の違いによって、機能に大きな差が出てはならない。
機能分化でばらばらになった世界にあって、短時間の交渉しか持ち得ない他者の人格を判別するのは難しく、よってその場合、人格から他者の行動を予期するのは困難だ。雪さんを知らなかった頃のわたしどもが、プライベートな格好をした雪さんと出会っても、瞬時にうちに彼女の人格を理解できる訳ではない。ところが、もしメイドさんの格好をした雪さんならば、彼女にメイドさんの如く行為する事を期待する事ができる。人格から行動を予期するには余りにも時間が足りなくても、わたしどもはその役割から行動を予期する事ができる。
役割からの予期を保証するのは、雪さんがメイドさんの格好をするのなら、メイドさんらしく振る舞わねばならぬとする倫理である。高度の複雑性および機能的分化へと転回した社会では、殊に斯様な倫理の発達を見るだろう。他方、機能的にあまり分化していない社会は、役割には左右されない特定な品行の道徳というものを生む(Luhmann[1972=1977:310])。メイドさんであってもなくても関係はない。雪さんはいつだって雪さんであり、従ってわたしどもは今すぐにでもその胸に飛び込んでいかざるを得ないのである。
ご主人様に対する雪さんの苛烈な溺愛は、わたしどもにささやかな不安を投射するようでもある。雪さんは、ヘタレるご主人様をとにかく肯定する。しっかりなさると、雪に甘えていただく事が出来なくなってしまいますわ〜などと発し、わたしどもを興奮のるつぼに突き飛ばしてしまう。
わたしどもの生まれ育った社会は、そんな優しさを本当の優しさではないと見なしがちだ。だが、説諭な視点よりもっと気がかりな事もあって、メイドさんの職業倫理を超えてまでご主人様に奉仕する雪さんの行動は、微妙な機会主義に至っている節があり、ご主人様である所のわたしどもは心配になってしまう。雪さんの超絶とした奉仕は、職業倫理よりも自身の欲望を追求した結果に過ぎないのでは? 前に言及した如く、わたしどもの今日の世界は、役割よりも人格を優先してしまう行為を、かえって人格を損なうものとしている。すると、雪さんは単なる色情狂のおねえさんなのか? それは何かイヤだ。
雪さんとの比較で語れば、同業者のまほろさんは職業倫理に忠実なメイドさんで、わたしどもも安心だ。というよりも、まほろさんになると逆に倫理に対する意識が強烈すぎて、当初の内はご主人様を困惑させたりもする。この違いは何処で生まれたのだろうか。
何やら神話的な成り行きでご主人様の専属メイドになった雪さんに比して、まほろさんは契約書よって行動が規制されている由緒正しきメイドさんである。ご主人様は契約によって、まほろさんとの関係の中で生じうる未来の不確実性を緩和しようと努めている。他方で、その契約に至までの経緯を参照すると、家政婦派遣業が充実した世界にあって、まほろさんは常に代替可能性の不安に晒されている事は想像に難くない。機会主義の頻度が取引相手の数に依存する事を考慮すれば、すなわち取引相手が少数であるときのみ、機会主義が問題を引き起こすと考えるのなら(Douma&Schreuder[1991=1994:169])、ご主人様にとって一生専属であり、他に代わるものが存在し得ない雪さんの諸行為に機会主義の萌芽を見ても、不思議はなかったのである。
ミシガン大学の研究室で観鈴ちんの今わの際に達したアクセルロッドさんは、ある奇妙な疑問に動揺を覚えざるを得ませんでした。果たしてわたしが可哀想だと思うのは、本当に観鈴ちんなのだろうか? 彼女を失おうとしているおかんの方が可哀想ではあるまいか?
アクセルロッドさんがそんな事を考えるのには訳があります。かつて、夕焼けの屋上でみさき先輩と出会い、彼女に狂い果てた事のあるアクセルロッドさんは、失われてしまう莫迦主人公よりも、彼を失ってしまうみさき先輩の方に凄まじく感情を高揚せしめてしまった己を不思議に思いました。それまでアクセルロッドさんは、むしろ失われてしまう個体に感情が寄せられて然るべきだと考えていたからです。さらに『泣ける2ちゃんねる』のペット話を読んだアクセルロッドさんは、確信せねばなりませんでした。動物よりも動物を失う飼い主の方が可哀想だ。
観鈴ちんの臨終を見守る視点を考察するに当たって、わたしどもが強く意識せねばならないのは、そのアップショットが、おかんの視点に他ならぬことです。ギャルゲーはその主観視点が鑑賞者のそれと一致することを要請します。ゆえにそのアップショットの意味する所は、観鈴ちんシークエンスの終焉でおかんは、本来は鑑賞者の役を演じねばならない主人公に代わって、その役割を負わねばならなかったということです。もっとも可哀想なのは、観鈴ちんを失おうとしているおかんである所のわたしども自身だったのです。
学内のカフェテリアでアクセルロッドさんに捕まり、延々と話を聞かされた同僚のテッドは、困惑の笑みを浮かべました。
「だとしたら加奈はどうなんだい? あの日記は、どうみても彼女のほうが可哀想だろう? 彼女を失ってしまう主人公よりも」
アクセルロッドさんは反論しました。日記の中の加奈は自分を失おうとしている。それが可哀想なんだ。
「まあどうでも良いけど。でも、いちばん可哀想なのは、カフェテリアで一時間も君に時間を潰されてしまったぼくの方だと思うんだがねえ」
去りつつあるテッドの背中を眺めながら、アクセルロッドさんは溜息をつきました。
(俺たちはみんな可哀想だ)