2004年09月の日記
「うぉぉぉぉぉぉぉう、くっぴぃぃぃぃぃ、今すぐ結婚して呉れええええ!!!!!」
今夜もミシガン大学アクセルロッド研究室から発せられた氏の雄叫びが、静まりかえった研究棟を揺るがします。お人好しの同僚テッドは、放っておけばよいのに、つい氏の研究室を覗いてしまって、またしても小一時間ほど拘束される羽目になるのです。アクセルロッドさん、今晩は『モンキーターン』の櫛田千秋選手(32)に、大脳辺縁系を犯された模様です。
「聞いてくれよ、テッド。くっぴーは齢32なんだ。わかるかい、どこから見ても大人の女性なんだよう。つまり、最近まことしやかにキャンパスで流布しつつある僕の童女愛好癖疑惑がこれで払拭される訳だ。僕はもう、公安当局の監視に怯えることなく枕を高くして寝られるよ」
「君に成人した女性を愛する能力があったとは意外だよ、ロバート。いったい彼女のどこを気に入ったのかい?」
「くっぴーの情動が32歳独身女性のそれとはとても思えないんだ。どんな人間でも30を突破する辺りになると、すこしは斜に構えるものだと思うんだが、彼女は違う。30を突破した女性の思考を全くしない。純真なんだよ。ゴールの直前で『届いてぇぇぇぇ』って必死になる顔は一種のエロティシズムだよぉぉぉ。まるで、32歳の皮をかぶった三十年前の田舎の中学生ではないか」
「それは、けっきょく、童女愛好癖の手の込んだ隠蔽ぢゃないか」
「違う、違う、違う。忘れてもらっては困るよ、テッド。くっぴーは32歳だ。性格造形が中学生であっても、断じて童女ではない。容姿と人格のそんな乖離こそが、如何ともし難い情欲を刺戟するのであって――。いや、まてよ、つまり、僕は年端もいかない娘でも30を越えたおねえさんでも平等に見境なく愛を注ぐことができる人間だと? 童女愛好癖のカテゴリーすら入りきれない異常性癖だと? そういうことなのか、テッド!?」
「落ち着けよ。人類愛は誇るべきことだぜ。ただ、場合によっては犯罪になる。それだけのことさ」
「この国は、いつから愛に対して寛容になれなくなったのかい。僕はもう疲れたよ」
レヴィ教授は言いました。『宇宙は冷酷非情です。私たちはたくさんの愛を投資せねばなりません』。 自己循環な言い方をすれば、愛の投資が犯罪に他ならないからこそ、宇宙は冷酷非情なのです。
対戦車誘導弾のオフェンシヴな運用は多大な愛を必要とする。この怪しげな命題を理解するためには、おなじみの第4次中東戦争のトラウマから語らねばならないであろう。その初日、イスラエル軍はおよそ100両の戦車をAT-3とRPGで失い(櫻井[1990:35])、今日にまで至る戦車不要論の端緒をつけてしまった。
ミサイルがあれば楽勝ぢゃんな発想に対するショックは、既存の運用が無効になることで発せられる、安全保障に関わる人々の即物的な悲鳴に他ならぬが、他方で、より抽象的な側面において、それは倫理の問題ともリンクしてしまい、わたしどもごく一部の人間を途方もない不安に陥れてしまう。誘導弾が残虐だとか、そんなことではない。大規模な機甲部隊を運用するために費やされるしみったれた勤勉さ(=愛)と、対戦車ミサイルを携行する歩兵を運用するために費やされるしみったれた勤勉さ(=愛)が釣り合っていないように思われるのだ。
テロリズムを非正統化するためにしばしば用いられる寓話を通じて、この発想を考えてみよう。まず、ファンダメンタリストがハイジャックによってワールドトレードセンターを破壊するケースと、国家間の正規戦で、大気圏外から降下したパワードスーツ中隊によってワールドトレードセンターが倒壊するケースを比較してみる。いずれにせよ、日常生活の規範に基づく理解からはるかに跳躍した事態だが、あえてどちらが正統な行為か無理矢理考えると、後者に分があると思われる。ハイジャックを実行することに費やされるしみったれた勤勉さ(=愛)とワールドトレードセンターの建造に投じられたしみったれた勤勉さ(=愛)がまるで釣り合わないのに対し、パワードスーツ部隊を運用するために投じられる愛に関しては、何となくコストが釣り合っているような空想の成立する余地があるからだ。
けっきょく第4次中東戦争の顛末は、戦車を単独運用した方が悪いということになりそうで、機械化歩兵の随伴と砲兵の支援の結果、AT-3の命中率は数パーセントに落ちてしまった(櫻井[1990:36])。また、前に触れたように、砲迫支援に晒される状況を想定すると、歩兵やソフトスキン車両に携行された誘導弾はタコ壷に潜るほかなく、従って用途はディフェンシヴなものに限られてくる。対戦車誘導弾には愛が足りないが故に、戦車を代替できないのである。
しかしながら、これでわたしどもが安眠を貪れる訳ではない。愛の足りない対戦車誘導弾に、対戦車ヘリという壮大な愛が投じられた時、あらたな不安が生まれる。すなわち湾岸戦争、T-55七面鳥狩りトラウマである。
(つづく)
櫻井敦文 1990 「ソ連の対戦車ミサイルと搭載車両」 『戦車マガジン』 第13巻 第1号
本稿で、その罪深さを幾たびも触れてきた『大戦略V』は、CPU側が101空挺師団なみに攻撃ヘリを集中運用して、90式戦車数個中隊を血祭りに上げるに及んで、わたしどもへ深いトラウマを刻み込んだ。固定翼機を展開できない状況下では、攻撃ヘリの集中運用に対処する有効な術はなく、しまいには攻撃ヘリの為だけにペイトリオット中隊をハリネズミに如く展開するメルヘンな景観が広がり、わたしどもを興醒めさせた。思えば中学生の頃、黒こげになったイラク戦車の群れを見て、アパッチがあれば楽勝ぢゃんと思ったわたしどもであったが、回転翼機に対する『大戦略V』の異常な執着と威力を目の当たりにすると、この感傷がシステムソフトのデザイナーにも共有されていたように思われてくる。しかしながら、コストの問題さえなければ、世界中の軍隊が101空挺師団と化するのか知らんという空想は、何とも情緒がない。
ただでさえイヤイヤなアパッチもイラク戦争ではロングボウである。ミリ波レーダーでもうダメダメ、やけくそである。しかし、そんな絶望の最中にあって、メディナ師団が、強襲してきた攻撃ヘリ連隊をぼこぼこに返り討ちにして、1か月ほど行動不能に陥れたエピソードには[注]、ECMでかなりダメダメな中、AAGでF111を墜としてしまったリビア軍の如き夢と浪漫がある。不幸が重なり、ロングボウを単独運用してしまったのが原因らしい。
近接対空兵器に抗甚してしまう『大戦略V』の攻撃ヘリを経験してしまうと忘れがちになることがある。ヘリは本来、繊細で脆弱な乗り物である。過剰な火力と足の速さに対して撃たれ弱い回転翼機のイメージは、一昔前の騎兵を彷彿とさせる。古典の世界では、正面を重装歩兵で拘束している間に、側面へ回り込み突撃をする騎兵がしばしば語られ、重い兵種へ軽い兵種をまともにぶつける訳にはいかないことをわたしどもに教えてくれている。これは、どうやら今日のアパッチ・ロングボウでも事情は同じらしく、ヘリでだけで縦深攻撃を行うのは危険らしい。では、如何様に運用せねばならないのか。恐ろしいことに、MLRS砲兵のATACMSと衛星誘導爆弾の支援が必要で、作戦の直前に向こうの防空システムを混乱せしめてもらわないと、前述のような夢と希望をわたしどもに与える羽目になってしまう。『大戦略V』では一生わからない世界が広がっていたのである。
かくして、対戦車ヘリの運用にも途方もない愛が必要であることを知ったわたしどもは、ようやく『大戦略V』のトラウマから離脱し、高いびきが可能となる訳だが、これは新たなトラウマの始まりでもあって、今度は衛星誘導爆弾が恐ろしい。助けて呉れ。
[注]
2004 「図説イラク戦争のアメリカ軍Vol.1 アパッチ攻撃ヘリの戦車師団撃滅作戦」 『軍事研究』 第39巻 第8号
いきなり3頁目にして、秋川夫妻が「すごい汗」「もっとちがう汗がかきたいな〜」とベッドでいちゃつく惨状で、先行きの不安を覚える。もっとも、お話の構造自体は、古典的なシナリオテクノロジーの枠組みに忠実で、ほどほどの安心感がある。基本的に、自我同一性の問題が、内と外から同時並行でやって来て、その際の人格的混乱を愛でる物語である。ただし、古典に忠実でありながら、その破壊力は全く持って問題にならない。これはなぜか。
この物語で人々に不安を投影する事象、つまり人生の動機となるものは、前述の通りふたつある。自己の身体が有機組成でないのか知らん、及び、世界が潰れてしまうのか知らん――であり、この不安によって下々な家庭問題が活性化する。物語を語る景観としては十分なものに思われるが、他方で、人妻に手を出したり、中学出たてのメカ娘とアイスクリームでいちゃついている暇があったら貴様等もっと真剣に錯乱を演じ給えな苛立ちの沸々するのも禁じ得ない。本気に錯乱を演じ得ないのはもっともなことで、人生を動機づけている未来の不幸が、どれも「か知らん」というあくまで可能性の修飾でしか語られないのだ。
例えば、ギャルゲーという物語のフォーマットにあって、娘が食事中によく箸を落とすようになったり、物忘れが激しくなったり、足が痺れるようになったり、原因不明の発熱に苛まれるようになったら、確実に死に至るメルヘンな奇病に罹患したと考えて相違なく、したがって来るべき未来はひとつしかないだろう。わたしどもは覚悟を決めて、娘の滅びる物語を愛でねばならぬ。しかし、神林は予知の不確実性を随所において語ることで、可能性の地平を開いている。変容する世界の様相が未確定におかれるため、消失に対する娘のおののきが、根拠不明に見えなくもなく、結果として人生の動機がスポイルされてしまう。
日常の生活を脅かすことで、人生の動機を形成する不安な事象は、それそのものの消失によって解決される類の現象ではない。直接的なアプローチで解決できるのなら、そもそも人格的動機を形成しうる程の不安にはなり得ないからだ。ゆえに、人生の不安は、本人の先天的属性に起因するものであったり、文明の属性に因るものであったりする。みさき先輩を動機づける全盲も加奈の虚弱な腎臓も観鈴ちんの癇癪も、物理的な治癒は難しい。問題は別の形で解決せねばならない。それは往々にして、世界に対するパースペクティヴの転換という形で訪れる。
神林の語る不安は、確かに、物理的な解決の難しい現象かも知れない。ただし、物語はカタストロフの手前まで、その事象自体が実存するか否か決定せず、むしろその未決の不安が人々の行動を規定しているように見える。そして、それは解決の容易な不安である。答えが未来に必ず用意されているからである。
Kは、自他共に認める筋金入りの童女愛好癖者である。彼の日常生活そのものが、道徳への挑戦であった。
一昨年の夏、性の衝動に突き動かされたKは、タイ北部の村○○へ遙々と飛来した。空想の幼女に飽き足らなくなった彼は、より実存性ある幼児猥雑を目指して、通俗倫理の涯と呼ばれるかの村を訪れたのであった。
人間というものはわからないもので、実際に童女専用売春宿にて現実なる幼女と淫行に及ぶ際、Kは猟奇的な気持ちの悪さを知覚して、嘔吐した。罪悪感ではない。Kの童女愛好癖は、あくまで空想上の童女に適用されるもので、彼は生身の女性に欲情できる人間ではなかったのだ。迂闊なKは、その時まで、己の性癖のそんな側面に気づいてなかったらしい。
童女愛好癖という特殊な性愛のあり方とは無縁な、極めて善良な市民である所の私どもにも、Kの経験を共有することはできる。長期間にわたり持続してきた欲求は、いざその充足を目の前にして、しばしば霧散してしまう。例えば、海辺の街で出会った癇癪持ちの白痴気味な女子高校生の幸福を、私どもは心から願うが、他方で、彼女が死に至る奇病に罹患した時、私どもは倒錯的な興奮を覚えてしまう。その癖に、臨終間際の彼女が車椅子から立ち上がり、「もうゴールしてもいいよね」と微笑み迫り来ると、私どもは「観鈴ちぃぃぃぃぃぃん、ゴールしちゃダメダメぇぇぇ」と咆吼し、彼女の生存を願ってしまう。人生の浅ましき景観である。
ところで、種の存続と繁栄を志向する戦略から評価をすれば、生身の女性に欲情できないのは罪で、生身の女性を愛せても、その対象が童女に限られるのなら、やはり罪である。いずれにせよ生殖に値しないからだ。それでは、生身の女性に愛欲の不能な童女愛好癖者であるKは、いったい何者なのか。一言で語ればゲスである。即地獄行きである。帰国後、早々にKは中央線へ飛び込み、速やかにこの世から退去していった。
私どもの生活を規定する倫理観では、最低の階梯しか与えられなかったKは、同時に真の童女愛好癖者であった。なぜなら、人生を終える直前、Kが誇らしげに語った如く、本物の童女愛好癖者は童女を大切に思うが故に、彼女には決して手を出さないからである。けっきょく、この地上を生きるには、Kは余りにも優しすぎたのであった。
『天使が空を舞い、神の思召しにより、翼が消え失せ、落下傘のように世界中の処々方々に舞い降りるのです。私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌には必ず無関心に、煙草も吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永に惚れてなさい』
太宰治 『美男子と煙草』
これまで幾度も触れてきたように、恋に陥った娘は、その情感を直接に表現するよりも、むしろ感情を隠匿する選択をしばしば行い、そして錯乱する。娘はらっぶらぶで堪らぬ他者と廊下ですれ違う際、自己のらぶらぶ光線を彼に悟られまいと何気ない振りに努めるものの、らぶらぶな人間を間近にして冷静さを保てるはずもなく、広い廊下なのになぜかわたしどもと衝突しちゃったりする。わたしどもはわたしどもで、「こんな広い廊下なのに、なぜに校内一かわゆい○○さんは、必死な形相でわたしどもにぶつかるのか――、はっ、もしや」と自惚れるだけ自惚れて、そうこうしている内に人生なんぞあっという間に終わりかねないのだが、そういうことはどうでもよくて、ここで考えたいのは、校内一かわゆい○○さんの意図しない行動が、結果的に巧妙な感情表現になっていることである。
『天才マックスの世界』のジェイソン・シュワルツマンと比較すると、校内一かわゆい○○さんが無意識のうちにとった戦略の優位性は、いっそう明らかになるように思われる。恋愛に対するシュワルツマンの感情表現は直情的である。彼は策を弄してオリビア・ウィリアムズを落とそうとする。しかし、全く相手にされない。示唆的なのは、シュワルツマンが成長し、恋愛を超えた感情を表出して、初めてオリビアの方がめろめろになってしまう景観である(スケコマシ問題)。破壊力あるらぶらぶ光線は、らぶらぶそのものを持っては語られ得ないのだ。
らぶらぶな他者に衝突する娘は中学生であり、そんな娘にドキドキするわたしどもも中学生である。大人はこんなまどろっこしいことはしない。恋愛表現はより洗練された形態をとることになる。しかしながら、感情の表出が社会的に洗練されてくると、今度は感情の信憑性が問題になってくる(Luhmann[1984=1995:515])。感情の真実さをコミュニケーションできないという特別の問題が生じてしまう。
かつて、わたしどもの通った高校に英語のH教諭という恋多き御仁がいた。氏は授業中に己の愛の遍歴を語り、「最近は胸がときめかなくなったなあ」と感慨深げになられた。大人になるということが如何なることなのか、わたしどもに教えてくれているようである。
Luhmann, N 1984 Soziale Systeme : Grundriss einer allgemeinen Theorie, Suhrkamp Verlag
相対論的理由のためか、あるいは身体が有機組成でないために、個体が他者に比べて異様な長命を誇るお話は、パートナーと共有する時間が縮減するに伴い、しばしば情緒的になり、わたしどもを喜ばせる(相違する時流)。多くの物語は長命な視角によって語られるので、その情緒は標準的な時流から疎外される寂しさになる。物語は孤独の向こうに救済を設置しようとするが、これがうまくいかないと『アンドリュー』のロビン・ウィリアムズの如く自殺願望が志向されることになる。通常時流からの孤立に耐えられないのである。もっとも、ここでのロビンはかなりのスケコマシなので、哀れというよりはむしろざまあみろという印象がある。
ブラッドベリになると、相違する時流をめぐるこの視点は逆転される。『霧笛』では、長寿モードに入った人格の孤独を通常時流にある人々が想起する形で、切なさが描画される。この相対的に短命な視角へより実存感ある問題が課せられ、彼らが長寿者の緩やかな孤独とは全く反対の問題に突き当たるのが『霜と炎』である。生存期間が余りにも短すぎることから来る切迫した孤独である。
長命モードから反転したこの鋭敏な孤独は、問題解決の希望が残されているがゆえに、短い余命の内にそれ目指すサスペンスな生の執着へつながっている。その意味でも、自殺を願望する長命モードを裏返している。そして、もし現状を解決する手段が残されていなければ、物語は確実にやってくる終焉を前にして混乱する人格を語るだろう(難病物の快楽)。
『霜と炎』は、主人公のヒロイックな行動で全てがお目出度になる類のお話で、情緒とはそんなに縁のない冒険譚である。しかし、このお話では別のラインとして、数世代に渡って問題解決を試み続ける科学者集団が語られている。情緒を求めたいとすれば、むしろ視角を彼らに設置するのが良さ気で、後に星野宣之はこのプロットを拡張して人生や親子の物語に普遍化し、切なさを暴発させている(『セス・アイボリーの21日』)。個人の期間限定された視角と、複数世代を横断する問題解決行動が併走することで、難病の快楽と生への欲求がひとつの物語で接合しており、効率高いストーリー工学のサンプルをそこに見ることができる。
「僕はねえ、いつだってみさき先輩のことを想ってるんだよ」
その日、『みさき先輩ドラマCD』を半年ぶりに聴いたKは、赤子の手をひねるかの如く錯乱し、そして疲弊した。彼は、昨今その言語野に住まいつつある仮想の妹に語りを始めた。彼はもう行き詰まっていたのだった。
「みさき先輩ぃぃ! 結婚して、こんなにも哀れな僕を抱っこして撫で撫でして下さい!」
妹は、お兄さまの醜態に呆れたようであった。けれども、そこに、兄が別の女に恋慕する際、世界中の妹が被らねばならぬ嫉妬の色があることも、見逃してはならないだろう。
「お兄さまっ! みさき先輩がお兄さまと結婚することなんか、あり得ないのですわ。みさき先輩が愛しているのは主人公なのですわ。お兄さまではありません」
「確かに、ゲームではそうかも知れないけど、もし此処にみさき先輩がいるとすれば、必ず僕を愛して呉れるに違いないんだい。みさき先輩はそういう人なんだよう」
「どこからそういう確証が得られるのですの? お兄さまが夕焼けの屋上に放り込まれたって、みさき先輩が『夕焼けきれい?』って微笑み迫ってくるとは限らないのですわ」
「うっ、五月蠅い。黙って呉れ」
この世の娘に愛されることが、ギャルゲーを優越する点は、物理的な接続の可否にとどまることはない。雪さんが抱っこして撫で撫でしている個体は主人公なのか、それとも私どもなのか、その境界は不明である。彼女のらぶらぶ光線は何千、何万と累積する不特定多数のユーザーへ拡散して行く。しかし、今此処にいる娘から発射されるらぶらぶ光線には、明らかな確実性がある。
「わたくしのらぶらぶ光線だけが、お兄さまに確実性を有するのですわ。お兄さまはもう諦めて、こんなにもかわゆい妹をらぶらぶすべきなのですわ」
「君だって此処にいないぢゃないか。君は僕の夢ぢゃないか。思い出ぢゃないかあああああ」
生身の娘に愛される。それは、この世界にあって己に好意を抱いてくれた人間が存在することの確実性である。同時に、世界に対して自己が意義を有していたことへの愉悦なのであった。