2005年3月の日記
近接航空支援に際してmanpadsを想定する場合、富士山より下は怖くて飛んでられないという事情(江畑[2004:121])があるらしく、さすがにそんな高度にもなると精密誘導兵器といえども誤爆の恐れなしとはいえず、誤爆の局限を求める世間の手前もあって、なかなかきびしい昨今。
そういう訳で、今からおおよそ半年くらい前、衛星誘導爆弾があれば怖いものはないと、喜びつつも恐れおののいたわたしどもであったが、冷静になってみると、JDAMでも目標の正確なGPS座標がないとやっぱり誤爆しかねない。上空3000mから正確な座標値など無理があるので、その座標を知るべく投弾すべき目標物に近接する人の目が必要になる。そして、敵地のど真ん中のターゲットとなると、陸上部隊に随伴して近接航空支援を仕切る空軍のコンバット・コントローラーには荷が重くなる。単独行動できるSOFの性格を空軍のCCTに求める動機はそこにある。または逆に、陸軍のSOFがCCTの機能を担いたくもなってくる(ただし色々と困難もあるらしい)。
以上の諸事情から空想を拡張させると、『ゴジ×メカ』の対特殊生物自衛隊というのは、SOF化したCCTとして語る方が合理的ではないか、という気がしてくる。日本列島近海を回遊するゴジラに着上陸侵攻の可能な海岸は日本全土にまたがると考えられ、SOSUSやP3Cでコンタクトを維持できるとしても、あのクソでかいメーサー砲車をことある毎に分解して空輸するのは面倒だ。メカゴジラ(四万トン)に至ってはほとんど狂気である。かといって、相手は飛び道具をもっていて、従来の近接航空支援も危険すぎるので、はるか上空のプラットフォームから、JDAMを100発なり200発なり落としてみたい所である。
けれども、そこで出てくるのが冒頭の誤爆問題で、ことに狭い日本列島では選挙民がひしめいていて、世間体は中近東の比ではない。しかも相手は固定目標ではなく、ますますもってSOF化したCCTをその近辺に張り付かせる必要が出てくる。このご時世では、メーサー砲車よりもM4と装甲化したラップトップPCをかかえたCCTの方が趣深い。
誤爆というテーマは、21世紀初頭にあって戦争を語る言説のトレンドであり、かつ物語へ容易に昇華できる詩情あふれる惨憺な現象である。CCTに特化した特生自衛隊員としての釈由美子には、メーサー砲車で上官を潰してしまったという生やさしいトラウマではなく、GPS座標値を上空の爆撃機に伝える際に、イリジウムにつながってる送受信機のバッテリーを交換してデータがリセットされてしまい、代わりに自分の座標値が伝えられてJDAMが頭上に落下(江畑[2004:110])するくらいの気合いと根性が要請されるだろう。あとは、必ず特自のCCTを通して空自の支援を仰がねばならない陸自のストレスが爆発したり、異軍種である特自に対して空自パイロットの信頼が得られない等々、と夢と浪漫があふれすぎてくるが、ここまで来ると、ゴジラなんぞもうどうでもよくなってくる。
ちなみに、この「ゴジラなんぞどうでもよい」という結論は、社会的な文脈から見た怪獣映画の進化の行き着く果てとして、非常に正しいあり方だと思う。つまり、わたしどもがそもそも怪獣映画の中に見ていたものは当の怪獣ではなく、それ以外の何かだったのではないか。(つづく)
江畑健介 2004 『21世紀の特殊部隊』 並木書房
『パトレイバー2』が公開されたのは今を去ること十二年前のことで、当時高校生だったうら若きわたしどもは、俺様が見たかったゴジラ映画はこれだあ、と嘆息したものだった。
もっとも、当のお話は怪獣映画という訳ではなく、つまり、理想の怪獣映画にはもはや怪獣が出てこないのであり、格好のよい怪獣映画のあるべき姿を追及すると、かえって怪獣の生息する余地がなくなってしまう。この不可解な現象の解答は、怪獣映画というジャンルムービーの生い立ち自体の中にあるように思う。すなわち、実際の所わたしどもは怪獣を愛でたかった訳ではなく、むしろ、怪獣の破壊活動としての戦争を愛でたいのではないか。言葉をかえれば、敗戦後、わたしどもの所属する共同体は怪獣という装置なくして共時的な戦争を語れなくなったのである。
おそらくは、台頭してきた和風リベラリズムとの兼ね合いや、より即物的には、そもそも日本列島における大規模な正規戦をまともな発想では想定し得なくなってきた事情があるように思う。そこで、怪獣という自然災害っぽいイベントを、戦争という文脈で語るような視点が発達し、結果として、戦前や戦中に開発された共時的戦争映画を語るスキルが保存され伝承されることになる。
ここで、文頭の『パト2』に戻ると、このお話は怪獣なしに怪獣映画の想定するイベントを描画してしまっている。その意味する所は、わたしどもがわたしどもの戦争語る際に、もはや怪獣を必要としなくなった、ということである。『パト2』がカンボジアのPKOを下敷きにしているように、わたしどもの共同体が参与する戦争を無理のない想定で語れるような文脈が新たに発見されてきたために、怪獣というファンタジーをわざわざ導入する必要がなくなってしまった。
平成ガメラ以降、怪獣映画の自衛隊が格好良くなり始めたのも、以上の議論と整合性のある現象と思われる。怪獣映画がその原初の形態としての戦争映画へ回帰することを、新しいパースペクティヴが容易にしている。ただし、そのゴールには怪獣映画そのものの否定が待ちかまえてる訳で、ゴジラが終わってしまうのもむべなるかなと感慨もひとしお。ゴジラを語る文脈においてしばしば見受けられる湿っぽい情緒も、自己成就と自己消滅が等号する景観に、その契機を考えるのも一興だろう。
『カリスマ』('00)のラストカットをひとつのファルスとして考えてみると、その衝動的な笑いはふたつの因子に分割できるように思う。世界のファンタジーな拡張とそれに脅える塩野谷正幸である。
ファンタジーな拡張に関しては、前に本作の感想を述べたときに触れた通りで、山林で遊んだ役所広司が、いざ下山しようとすると地上がとんでもないことになっている。役所の微細な運動が世界をなぜか壊してしまう、その条理の欠落を愛でる様式である。
さらに、この景観は、役所の上司である塩野谷正幸のOFF台詞によって、客観化を受けることになる。下山せんとする役所は塩野谷にその旨を連絡する。すると、塩野谷は――、
「おまえいったい何やったんだ!?」
大いに恐慌の模様である。もちろん、役所は何もやっていない。ただ、雑木林で大杉漣と戯れただけである[注]。その恐慌によって、条理の欠落が強調される。
もっとも、塩野谷の恐慌は、強調という補足的な機能だけにとどまらない。それ単独で、このファルスを成立させる機制すらも担ってるように思われる。つまり、それは、とつぜん出現した次元の違う非日常に狼狽する小市民についての、なんとも愛らしい言及なのではないか。
この、異次元に狼狽する小市民の様式は、おそらく同じものを、わたしどもは『英雄本色II』('87)における偽札造幣業者にも見出すことができるはずだ。“呉宇森”という人間の法則が通用しない現象に前触れもなく襲われた彼らの驚愕せる顔面造形や身体運動の中に。
映画史的ともいうべき、チョウ・ユンファを捉えたこの望遠圧縮風なショットは、『カリスマ』の役所と文字通り対照をなしている。役所もユンファも、これからせせこましい世間を蹂躙しようとしてる。ただし黒沢清は役所の背中をミドポジして、どんでもないことになってる地上を眺めている。対して、ウー先生は正面から堂々とフルショット。気合いと根性の差だろうか。
ユンファの正面には、役所における地上としての偽札造幣業者が群集していて、彼らは、とつぜん襲いかかってきた異次元に、その意味合いを見いだせないまま、ただ、驚愕だけを特異に誇張された身体運動で語る。それは喜劇に他ならない。
塩野谷の恐慌は、あくまで言説による語りであったが、偽札造幣業者の運動は、言葉の介在しない視覚的な伝達であり、普遍性においては後者に分があるように思う。もっとも、その分、伝達に費やされるコストが要求されており、情報における費用対効果の問題を考慮すれば、一概に優劣を語ることはできないだろう。
[注]
役所と大杉が戯れるなら地球がいくつあっても足りないではないか、というマニアックな見方もあろうが、本稿ではとりあえずその立場はとらない。
藤崎詩織の抱き枕をたずさえ気勢をあげる人々の歴史的集合写真を眺めていると、どうして貴様等はそんなに浮かれてられるのか、たいへんなる疑念に襲われること甚だしい。もし、他人がみさき先輩の抱き枕をハグしてるとしたら、わたしどもならヤキモチを大いに焼却せねばならないだろう。
ひょとして、あれはスワッピングの一種なのだろうか。俺様の藤崎が他者にハグされる、その想定に高揚を覚える性癖があの一葉を成立させたのだろうか。それとも、他者に恋愛感情のリソースを分散・共有される対象でありながら、なおかつそれに情緒を持続できる感情の様態があり得るということなのか。
空間と時間を隔てられても、なおかつ他者と疎通せねばならない景観は、しばしば、ある種の機能的要請によって成立するものと思われる。機能という比較的に強い動機がなければ、怠惰が遠い他者との交通を阻害してしまう。
ここでふれる機能という意味合いは、例えば、ATC業務におけるコントロールとパイロットの間で成立する交通に類するもので、映画的な文脈でその顕著な一例を挙げるのなら、宇津井健×千葉真一(『新幹線大爆破』)。そして、この二人から参照されるように、コントローラーとプレイヤーという関係にあっては、力関係の微妙な均衡が言及された挙げ句、感情のもつれが生ずることもある。実際の現場で危険にさらされる千葉は動転して、総合指令室でのほほんとする宇津井をなじるが、もちろん宇津井は宇津井でとんでもない中間管理職のストレスに晒されていて、わたしどもの涙を誘う。
この不均衡を是正するために、『ID4』は巧妙なる物語の装置を考案していて、プレイヤーのイーグル1だけでなく地上でコントロール業務を行うエリア51にも物理的な危険が同時に迫り、たいへんである。
隔離の上で成立する友情というものを、以上のように機能という文脈で語る場合、それは司令室フェティシズムと密接な連関を持つことになるだろう。ところが、この状況はサイエンス・フィクションの扱うアンソロポロジーの文脈に変換して語ることもできる。所謂フィールド・ワークなのだが、サイエンス・フィクションでそれを語ると、フィールド・ワーカーと調査対象者の生存条件が違いすぎて、けっきょく隔離した上で両者は交通せねばならない。
司令室フェティシズムの文脈で語られたコントローラーとプレイヤーの不均衡、つまり物理的な危険の格差は、アンソロポロジーでは文明の格差による力関係の開きという形で顕在化する。宇宙の未開地に到達できたフィールド・ワーカーと地べたをはいずり回るインフォーマントとの技術的に身も蓋もない落差。
『琥珀のひとみ』は、それがアンソロポロジーのパロディである以上、人類学の教科書が参与観察にまつわる問題に言及する際に、わたしどもが往々にして被ってしまう気まずい空気と無縁ではない。ネイティヴを土人の如く扱うのは世間体的にまずい。かといって、それを崇め奉るのもイヤらしい。
ちなみに、文明の気まずいはにかみは、原因であるテクノロジーの格差を解消すれば、無効になると思われる。そこで、ロバート・L・フォワードは観察者と対象者との間に成長速度の違いを設定し、文明の逆転を語ることで、文明のはにかみを回避している(『竜の卵』)。隔離型の友情が、今度は成長と立場の逆転という文脈で語られた訳である。
スコラ哲学のコンテクストにおいては、意志は自己同一性と相容れない、とされる。例えば、Godefridus[1904=1998:121-155]では、意志は自己を動かせるか否か、という問いかけがなされ、かつそれが否定される。意志は能動者の性格を有するが、その意を受ける身体は受動者であり、同じ基体の上でこの矛盾する性格が両立することはできない、という理屈である。
よって、何ものも自己に対して能動できないとなると、自己は如何様にして自己を動かすのか。意志が自己に対して働きかけができない以上、それは他者との関係において成立することになる。つまり、意志は自ら異質なものを通じて、自己を動かすことになるはずだ。
地理的な空間を越えて交通しようとする目論見は、機能的な色彩の基に展開される傾向にあるが、その壁に時間が設定されるとき、その機能はしばしば他者を通じて自己に言及する行為となるように思う。わたしどもが過去に居る他者を制御したいのは、わたしどもの現状を望むべき形に制御したいがためである。いわば時間の落差が、他者とわたしどもを逆に直結させてしまう。この自己言及性は、極端なケースになるとハインラインの語る如くなウロボロスとなってしまい、過去に居る他人に自分を孕ませる羽目になる(『輪廻の蛇』)。
『未来からのホットライン』は取り返しのつかないという情緒を愛でるお話で、そこで扱われる悔恨には両義性がある。取り返しのつかない今日を取り返すために過去の制御がなされるが、その制御そのものがまた新たに取り返しがつかない。過去の制御を通じて、今日が別の今日と代替された結果、制御の当事者がその存在を無効とされてしまう。
ホーガンたんはイヤらしい男で、このフォーマットで恥ずかしげもなくロマンスを語ってしまう王道っぷり。さすがは元セールスマンである。しかし、問題がない訳でもない。何とも腹立たしいのろけ描写の末に、その関係はやがて無効とされる。そして、別のタイムラインが語られ、そこでわたしどもが再び娘やおねえさんに出会えるか否かが問題とされる。けれども、当事者にとっては再帰性の概念が完全に欠落してしまっていて、再会が再会として成立しない。「失う」という経験すら無効にされるからだ。
もっとも、完全に無効化された今日を覚えている唯一の視点というものもないことはない。読者であるわたしどもである。そこで、娘を再び見出すというよりも、むしろ、可能上の未来群を比較するような視点を強調する戦略が採られ、可能的な今日の量産が始まる。もうひとつの未来では、娘を見出せないわたしどもが居る。しかし、また、別の未来では?――という情緒。この辺に来ると、わたしどもの乙女心も辛抱堪らなくなるを禁じ得ない。
Godefridus,D.F. 1904 Les Philosophes Belges.Textes&Études,t.II:Les quatre premiers Quodlibets de Godefroid de Fontaines, Texte inédit=1998 加藤雅人訳 「フォンテーヌのゴドフロワ任意討論集」, 『中世思想原典集成18 後期スコラ学』, 平凡社
先回のつづき。
複数の可能的な未来が併走し、それらを比較選考するとき、それぞれの未来は微妙な差異を以て区別されねばならない。もし違いが大きすぎると、もはや比較選考の対象とはなり得ない。
『未来からのホットライン』で謂うなら、おねえさんにスケコマシを開始するあたりがそれで、買い物袋を抱えたおねえさんがひっくり返るお馴染みの様式である。
まず、一発目の未来。マードックたんはひっくり返ったおねえさんを食事に誘う。やがて二人は恋仲にというむくつけき展開。
二発目の未来。おねえさんはひっくり返らない。したがって、マードックたんはスケコマすきっかけを見出せず、二人の関係は成立しない。
三発目の未来。おねえさんはひっくり返り、マードックたんは彼女のもとへ駆け寄る。その景観を眺め、ホーガンたん曰く「当然の成り行きというものだ……。」
物語はそこで幕を閉じるので、わたしどもには彼らの間に一発目の未来の如くなロマンスが成立するかどうかわからない。けれども、その「当然の成り行きというものだ……。」というホーガンたんの結句が憎い。
ホーガンたんの想定する未来の並列性には些か恣意的な印象がある。つまり、一発目の、恋愛が成立する未来が選択されることに深い意味はなく、たまたま偶然そうなっただけである。だから、恋愛が成立しない未来があっても不思議はなく、したがって一発目の未来は二発目のそれに代替され得る。
ところが、三発目の未来でおねえさんは再びひっくり返り、当然の成り行きというものだ、という修飾が付着する。「当然」というのは、ひっくり返ったきれいなおねえさんに手を出さない訳がないとの確信だが、しかし同時に、より大きな未来への確信もそこに想定すると、恣意性は否定され、かつ時間の問題へ転嫁されるように思う。遅かれ早かれ、わたしどもはみさき先輩と出会ってたはずだあ――、というあの感慨へ。
わたしどもの乙女心は、冷酷な恣意性の渦にあってひょっこりと顔を出すそのようなメルヘンに敏感である。
Kは人類一般に対して膨大な愛を持て余す人間で、殊に制作という職にあった時分には、関東一円に散らばるアニメーターや演出家の元へ馳せ参じては、「えへへ」と爽やかな笑いで媚びへつらったものであったが、その微笑を被ることになる人々は概して、机に向かって苦虫を爆砕せるが如くな顔をしていて、Kには甚だ心証悪く思われた。
何かこう、もっと愛、愛が必要なのよ〜。
そう嘆じては、布団の中でむせび泣く日々が続いたのであった。
数年後、Kは制作からとある技術職へ仕事を変えた。つまり、かつてKに苦虫をひねり潰して見せた人々と似たような境遇となり、机に座って悶々とする事が多くなった。だんだん外出が億劫となり、自宅と会社を往復するだけの毎日が続き、買い物はもっぱらAmazonで済まされ、生活は引きこもりの色合いを深めていった。すると、あろうことか、Kは次第に人間が鬱陶しく思われてきた。仕事の要件で馳せ参じてくる制作を見ては苦虫をすり潰して見せるようになり、かつては過度の卑屈で粉飾された仕事メールの文面からは、愛想が欠落していった。
けれども、未だKは人類一般に対して膨大な愛を持て余す人間の端くれには違いない事も確からしく、苦虫を轢き殺した直後には後悔にも苛まれる。もうすっかり外見はむくつけき成人男子となってしまったとはいえ、中身は超繊細な乙女である積もりの彼には、「貴方はそういう人ぢゃなかった筈よ」と、脳内に巣くう仮想妹からの叫びも聞こえてくる。
まことに、人生というものは嘆かわしい。Kは苦悶するのであったが、しかし、先日、はたと別の解釈に行き当たった。この人間嫌いは、人類愛の更なる深化ではないか、そう思い至ったのである。すなわち、左証の如く、Kの乙女心は超繊細で、人のちょっとした言動や仕草で大いに負傷を被るのは如何にもありそうなことで、それが人類愛への不信につながるのもなしとは言えない。そのリスクを避けるためには、人を遠ざけるのも仕方なく、いわば、この人間嫌いは人類愛保持のためにやむなきこと――。
嗚呼、なんて繊細で可愛げな俺様の乙女心。Kは酔った。大いにうっとりした。ところが、その恍痴は、仕事の要件で馳せ参じてきた制作によって、たちまちに破られた。不機嫌の絶頂に達したKは、苦虫を二十匹ばかり死に至らしめた。
事が済み、去りゆく制作の背中を見送りながら、Kはぼんやりと夢想した。
願わくば、おいしいものを沢山喰って、優しいおねえさんに沢山かわいがられて、思いっきり長生きしたいものだわい。