2005年5月の日記
木造の校舎という、この如何にもな舞台装置を用いている限りにおいては、大野はモダニゼーションを否定的な文脈で眺めているように思える。これでもかと追懐趣味のつぎ込まれた町並みは、概して肯定的に受け取られている。
二十数年の人生において、Kが身を焦がされてきた女性は甚だしき数に上ったものだったが、人妻に恋をしたのはこれが初めてのことであった。そのひとは古河早苗といって、パン屋の奥さんをしている。その出会いはまさにラブ・アット・サイトで、Kは一撃の内に灰燼に帰したのであった。
恋多き男Kは、その懸想を、年上のやさしいおねえさんに寄せる傾向にあった。ことに最近では、やさしいおねえさんの胸に飛び込まなければ三日も持たないだろうという有り様で、人妻に狂うのも時間の問題にすぎなかった。が、とりあえずは、その人妻のことは置いて、まずは彼女の娘のことから語らねばならないだろう。
早苗には一人の娘がいた。渚という、これまた非常に愛らしい娘で、上目遣いで微笑む様は、四年前、Kの人生を根底から覆した汎用メイドロボのそれを思い起こさせた。Kはたちまちの内に狂恋し、何とかこの娘をものにしようとまなじりを決すのだった。
ところで、奇妙な話ではあるのだが、異性に関して無類に情をほだされてしまうこの男は、また、不思議と異性の好意を引いてしまう性質みたいなものが天然に備わっていて、つまるところ、とんでもないレディ・キラーであった。渚を骨抜きにするのもそれほど困難な話でもなかった。
けれども、現実に交際をしてみると、渚は何とも物足りない娘のように思われた。女性に保護をしてもらうことにおいて、歓喜の絶頂を覚えるKからしてみれば、絶えず保護を必要としているこの繊弱な娘に、欲求のはけ口を求めるのは無理があった。渚に紹介されて早苗と出会ったとき、Kはそんな悶々たる日々の中にあった。
さすがに母娘だけあって、このふたりは似ている。その微笑みはKのパッションを刺戟することおびただしく、また、どことなく痴愚なところもあって、それがまたKの情欲をかきたててしまう。しかしながら、母性ともいうべき魅惑に関しては雲泥の差で、母には過剰なるそれを渚はことごとく持ち合わせていない。
Kはふたりの顔を比較対照しながら、ふと、或る思いつきに至った。早苗の母性は、後天的な色合いのもので、渚の年頃の彼女は、やはり、今の渚のように、はにかみ屋の娘ではなかったか。そうなると、現金なことに、渚が一転して夢と浪漫にあふれる娘であるように思われてきた。すなわち、渚が早苗の娘であるということは、後年、かならずや、娘は母となり、その恐ろしげな母性で以てKを破壊してしまうことだろう。Kは渚の微笑みに、来るべき母性を無意識の内にみて、猛り狂ったのだった。
調子に乗ったKはこの上もなく楽天的になり、さらに妄念を拡張してみた。そもそも渚に潜在的な母性が認められないとしても、もう構わない。俺が、この俺様が、渚に調教の限りを尽くして、宇宙的な母性を誕生させてやる。
その日から、Kの全人生を賭けたプロジェクトが始まった。早苗も渚も、所詮は、住むところが違う。いくら身を焼いても、世間の冷ややかな目が注がれるだけである。そこで、Kは、このリアルワールドに彼が夢想しそして虜にされたあの母性を投下すべく、そのレディ・キラーのおもむくまま迅速に結婚し、娘を設け、その子の内に大質量の母性が憑依すべく、幼少の頃から徹底的に調教の限りを尽くすことに意を決したのだった。
Kは結婚し、やがて一子が誕生した。男であった。二人目が生まれた。男であった。負けじと三人目をなした。男であった。経済的理由から、そこで打ち止めとなった。Kの息子たちは、三人とも、内気ではにかみやで友達の居ないおたくに育った。Kは、息子たちの中におのれの呪わしき血を感じては、夜な夜なむせび泣いたものであった。
それからまた、歳月は流れた。Kはすっかり穏やかな老人となり、やがて感冒にかかり、この世を去った。その死に際に、Kは、かつて恩師と交わした言葉を思い出していた。若き日の彼は、恩師にこう尋ねたものだった。
「神さまはぼくらを何処に連れて行こうとしてるのでしょうか?」
恩師は物静かに微笑んだのであった。
「地獄の底に御案内だよ」
まず、自分だけが生き残った、という状況があって、さらに、それがネガティヴな文脈で眺められ、そして問いかけがなされる。すなわち、何故生き残ったのか。
この問いにはふたつの意味合いがある。ひとつには、純粋に即物的な視点によるもので、その生還のメカニズムを、工学的・生理学的な眼差しから考えようとする欲求がある。もうひとつは、観念的なものであって、その生存に対する意味づけが試みられる。
『アンブレイカブル』('00)のブルース・ウィリスは、鉄道事故の生き残りで、やはり、おのれの生存に疑念をもってしまう。それはコントで語られるがゆえに、かえって、生存への嫌疑が浮き彫りになる。何故生き残ったのか――、純粋に身体が頑丈であった、と物理的な説明が投げやりになされる。では、何故に頑丈なのか、その頑丈さはいかなる意味合いで把握すべきなのか。ついでになされるのが、かかる観念的な問いである。探求の過程がサスペンスとして機能することはいうまでもない。
アレクサンダー・ボグダーンの文脈でも話は同じことで、チェルノブイリから帰還できたのは自分だけであって、最初に、医学的な見地からそこに問いかけが行われる。とうてい生きていられる筈がないからだ。つづいて、はやくも次のページで、観念的な問いが死んだ同僚の嫁より投じられる。
「どうしてあなただけ」(59頁)
物語は物理的にも観念的にも、その問いによって動機づけられることになる。(つづく)
ブルース・ウィリスがそうであったように、生存の疑問は、まず物理的な何事かによって提議され、次に観念的なステージへ至る。つまり、意味づけの作業が始まる。当たり前といえば当たり前な話である。
そういうことで、ボグダーンの生存を、まず物理的に同定しようとする試みが語られる。彼は検査のために来日して、広島を訪れる。チェルノブイリと広島を結びつけるあたりに、島田虎之介の物語なイヤらしさが何となく――。
それで、けっきょく、彼の生存せるメカニズムは解明できたのか。否である。けれども、このよくわからないという感慨は、それがわからないものであるからこそ、むしろ観念的な疑惑へのアプローチになっていて、わたしどもはついに、彼が夜な夜な苛まれねばならない不可解――なせ生き残ったのか、の意味を知ることとなる。彼はなぜ生き残ったのか? 答は簡単で、彼はもはや生きていない。頑強な体の中はすでに真っ黒で、生きているはずがない。
実は死んでいた、ということなら、生存への疑惑も無効になり、ここで以て、探求というサスペンスは完結をみるだろう。ただ、死んだはずの身体が、惰性として稼働し、やがてその正体が明らかになる過程は、身体の作為性というモチーフを思わせる。自分がすでに死んでいることを知って驚く幽霊のそれに。『アンブレイカブル』と『シックス・センス』で、シャマランは身体の作為性のバリエーションを語っていたわけだ。
島田がボグダーンの作為性を作中で含意するやり方は、けっこう露骨かも知れない。彼はボグダーンに、おそらくは戦術核に罹災したと思われる人々の行進を目の当たりにさせる。彼らの様子は概して陽気で、自分たちがすでに生きていないことを知ってそうにもない。
ところで、ボグダーンがこうした文脈で語られるイヤらしさ(政治的な意味合いというよりもその標準化された語り口において)を先に少し指摘したが、見方を変えれば、そこで『ラスト・ワルツ』は『夕凪の街』('03)と連結するように思われる。また、『夕凪の街』で語られた帰還兵ものの枠組みを、生存した身体の作為性で解釈することもできるように思う。
帰還兵が生存への後ろめたさを感傷の根拠としてる点で、それは、そもそも、生存の作為性と親和性のあるフォーマットということができるし、あるいは、その変異と解することもできるだろう。生存の疑問と解決のコンテクストから眺めると、『夕凪の街』は恋愛を語ることで、一応は観念的な疑念にケリをつける。ところが、直後、発病イベントが到来してしまい、生き残ったと思われた身体は、本当はそうではなかった、つまり、作為性が明らかになる。
生存の疑惑→恋愛による一時的解決→作為性の判明。なかなか夢と浪漫にあふれるコンボのように思われる。覚えておいて損はないだろう。
エルヴィスのステージでは、ドラムのロジャー・タットがエルヴィスの様子をうかがいながらエンディングの合図を送ったりしてたと聞いたのだが、パーカッションがコンダクターをやってる点では、神楽の大太鼓に似てると思った。そういう機能を担いやすいパート、ということなのだろう。
もうすでに事が終わってしまった、何か事後的なものがあり、片や、いま進行しつつある事件、つまり、事前的なものがある。動機というものは、この事後的なものと事前的なるものとの関わり合いにおいて語られるわけだが、『CLANNAD』にあっては、事後性/事前性を、人格を識別するための尺度として用いることもできるだろう。端的にいえば、渚とそれ以外の娘どもを分けるのが、その眼差しである。
事後性なる感覚は、当人にはもはや制御の不能な何事かに因るものなので、それはたとえば、先天的な属性に規定されたものかもしれない。内気、貧困、病気、美醜などなど。けれども、『CLANNAD』で語られる事後性は、人格の属性というよりも、何らかのイベントで語られることが多い。つまり、誰を失ってしまったこと。
美佐枝さんでいえば、それは消えてしまった恋人の話だろうし、ことみの文脈だと、旅客機事故で散華した両親の、あのとんでもない話となるだろう。また、有紀寧は兄貴を亡くしていて、そして智代はかつて家族を失った。作為的な身体で語られる風子に至っては、自分自身をすでに失ってしまっている。そんな娘どもの中にあって、ただ一人、何も失っていない、あるいは、失っていることを自覚していない人格があって、それが渚であったりする[注1]。メインとサブのヒロインが、喪失経験の有無で分割されている。
喪失せる娘どもに話を戻すと、教科書にしたがうのなら、失われたものは比喩的な回復を以て埋め合わされねばならず、物語はその代替を如何に語るかにおいて、技を競うことになるだろう。具体的な検討は後日に回すとして、とりあず、美佐枝さん、ことみ、風子を語る視角についていえば、教科書的な美しさともいうべき標準的な語り口のもとで、運用されている。まず、トラウマ発掘人たる主人公男の節介により、人格の事後性が発覚する。ついで、共時的/リアルタイムな時間の流れにおいて、その取り返しのつかないものが取り返される過程が語られる。
対して、イレギュラーな語られ方をされているのが、有紀寧と智代で、彼女たちにあっては、喪失→回復の手順が、過去の採掘の中ですでに完結してしまっている。美佐枝さんやことみが、わたしどもの眼前でまさに救済のプロセスを経て行くのに比して、有紀寧と智代はわたしどもに出会う以前からすでに行動を起こし、事を貫徹させていて、わたしどもがその娘どもに貢献できる余地はあまりない。有紀寧が不良グループをまとめ上げるのも、智代が家族を再生させてしまうのも、わたしどもにしてみれば思い出の中の出来事でしかない。
事後性の強度という点から見れば、まず有紀寧・智代グループがいて、その対向にあるのが事後性の薄い渚だろう。美佐枝さん・ことみ・風子はその中間に位置している。そして、強度の多様性は、プロセスの発端する位置や進捗する速度の相違に由来すると思われる。有紀寧・智代はすでに終わっている。美佐枝さんとことみのプロセスは進行中である。渚のそれは始まってもいない。逆にいえば、それは、わたしどもの観測位置に関する示唆でもある。