2006年3月の日記

 2006/03/03

「ウェイク・アップ・リトル・スージィ」



学校を、監獄のアナロジーとして解釈する考え方がある。おそらく、規律とか統制だとか、そういうイメージに喚起されたものだと思われるが、もうひとつ、次のことも想起してよい。両者は基本的に刑期付きで、単なる一過的な事象にすぎない。『ボーリング・フォー・コロンバイン』でトレイ・パーカーが指摘したように、そこが如何にくそったれだとしても、いったん外に出てしまえば、自分はなんと詰まらないことに煩っていたものか、思い返すものである。

ただ、堀の外に巨大な世界の広がる様を想像する能力において、生徒は囚人に比べ劣位におかれることだろう。囚人は堀の外からやってくるものである。ところが生徒は堀の中で育つものであり、外を認知する能力に基礎的な制約が課せられている。

彼の鈍足と天然を笑った運動部員たち。嗜虐趣味で無能な教員たち。地獄のような持久走。一人っきりの図書室。屋上のない校舎。それらがほとんど幻に近い代物だったことを、当時の彼に伝えるには、どうすればよかったのだろうか。



恋愛が心理的な防衛機制を呼び覚ましたのか、それとも恋愛そのものが一種の適応機制なのか、わたしには判別の付かないときがある。

たとえば、先日、五巻が出たばかりの『もっけ』を手にしたわたしは、ヒロイン静流の困惑せる様をむさぼるように眺めやると、また例によって、おのれのナルティシズムのおもむくままに、もし、この娘が自分を認知できたら、すかさず自分の美しさに参ってしまうに違いあるまいとか、嗚呼、やはり人生とはこういう娘を骨抜きにしてこそ生きるに値するものだ、などと空想を膨らませるのだった。

しかし、華々しくて余りある我が女性遍歴の中でも特別の座を占める彼女に、わたしは窮することもある。

静流は、人の見えないものを見てしまう女学生であり、その人格には凡人に優位せる属性が設置されている。そして、凡人のオロオロする様を観察するとき、彼女はとても冷たい眼をしている。わたしにはそれが不快である。同時に、この上もない快楽も感じる。

この不愉快が人格の優位性に由来するとなると、わたしは娘に隷属することを願いながら、実際は彼女の隷属を望んでいたことになる。しかしながら、同じくして身に寄せられるこのゾクゾクするような心地よさは何であろうか。実のところ、わたしはこれを知っている。宮崎あおいの人を蔑むようかのような眼差しと同じだ。

わたしは、自分に異常性癖など微塵もないと信じているが、それでは、ここに発現したマゾヒズムらしきものの説明がつかない。ただ、わたしに感ぜられるのは、恋慕せる娘の愛すべき性質がたとえ損なわれたとしても、わたし自らの体質が変わることで、娘に永遠の愛を捧げようとする、神々しい営みの一種である。もっとも、眠れる異常性癖の発現に、娘を利用している可能性もある。


思考が輻輳を起こしたとき、わたしはゆるりと構えて、う〜んAufhe〜be〜nなどとつぶやくことにしている。これも逃避だろうか。

わたしは再び静流を見つめ始め、しばし辛抱堪らなくなった後(誤解を受けるといけないので、余計な注釈をすると、物理的に下品な行為に耽ったのではない)、紙面から視線を外した。すると、珍妙なる現象に見舞われ、うろたえた。静流の残像が視界からなかなか消えてくれないのである。

最初は、まあ目薬でも差しておけばと軽く考えていたのだが、半時間経っても消失しないとなると、さすがに恐慌に駆られ、目医者に行くべきか、それとも心療内科に駆け込んだものか、しかしながら、心療内科はともかくとして、目医者で静流の残像が消えないとはとても言えんぞ、などとわたしは途方に暮れたのだった。



かつて、わが親愛なる師、ロバアト・アクセルロッド教授はこう言った。

「すべてが悪くなる」


わたしは最近、不眠症を患いつつある。勤務時間帯の過激な変動が原因だろう。三日前など昼間に出社して、翌日のお昼に帰宅した。明くる日、夕方に会社へ出たわたしは、明け方に帰宅し、そのまま眠れずに翌朝、家を出た。このような生活は二年ほど続き、わたしは一発で不眠症にかかった。

常日頃わたしが望むのは、小市民的でごくささやかな幸福にすぎない。朝起きて、夜に寝て、魚と野菜と緑茶を大量に摂取して、つつがなく長寿を誇示し、なるべく痛くない死に方をしたいものだ。したがって、この理想からほど遠い生活が、精神的に苦痛である。

眠らないで済むことは、色々アレでナニなことができる意味合いで、端から見れば便利なように見えるかも知れぬ。が、じっさいに罹患してみると、これはけっこう体力的につらいことがわかる。夢ともうつつともわからぬような有様で、日中を過ごすことが多い。

眠りが浅くなる訳だから、とうぜん認知しうる夢の数も増えることになる。最近見たもので印象的だったのは、戦術核が落っこちてくるものだ。

この手のフォーマット自体は、わたしのレパートリーの中では珍しくないものだったが、従来のものに比べて特異だったのは、夢を彩る色が明確に理解されたことだった。ショックウェイヴに蹂躙された大地が赤黒く着色して行くのが感ぜられた。そこを除くと全体はモノトーンのままである。それまで、わたしは夢に色を見た記憶がなかったのだった。

このとき、わたしの夢は初めて色彩を得たのか、あるいは、もともと色彩のあった風景にわたしがようやく気が付いたのか、この違いは判然としない。ただ、芥川の言葉を借りれば、わたしは情熱を失うことで、はじめて色彩を知ったのであった。そういうと、なかなかシブイではないかしら。


ところで、日中の忘我せる間において、時折、わたしは自らの奇癖に悩まされている。たいてい、マシンに向かって作業をしているときに失神するのだったが、気づくとテキストエディタに意味不明の文字列が残っていたりする。精神は失われても、体は惰性で動き続けているようだった。

この前なども、書類を作る過程で気を失い、いつものように十分ほどで我を取り戻したことがあった。それで、モニターを見ると、何げに意味のある文句が残されていたりする。これは初めての事態だ。

『やっほー、元気かい、我が親愛なる弟子。――ロバアト・アクセルロッド』

わたしは純粋に恐怖した。スピリチュアルな意味合いにおいて、そして、みずからの病を知って。



わたしは週末を利用して、我が親愛なる師、アクセルロッド教授の墓に参ることにした。あの謎の霊界通信、あるいはわたしの意図せざる妄想上において、師がそうせよとうるさく述べるのである。

一連のやりとりは、わたしが忘我しないと師が発言できないため、実際はかなり煩雑なものになったが、簡潔にまとめると次のようなものになる。

まず、『元気かい』と問われたので、不眠症に悩まされてること、静流の残像が消えないことをわたしが述べる。すると師は、海の風に当たれば治るなどと、当たり障りのないことを言ってくる。わたしがその発言に疑問を呈すると、逆ギレしたようで、最近、おまえは師の墓に参っておらぬだろう、莫迦者め、そういえば、墓は海の近くにある、ちょうど良い機会だ、参れ、今すぐ参れ、さもないと呪う、と脅迫を始めた。

わたしは理性の人であるが、同時に、心霊写真その他にことのほか恐怖を感じる。かかる類の脅迫にはきわめて脆弱であった。


我が師、ロバアト・アクセルロッド教授は南国の海辺にある小さな町に生まれた。海岸のすぐ背面に山が迫り、その間を縫うように、おそらく宇宙が滅びるまでに一度たりとも電化されないであろう単線の鉄道が走っている。電車は一、二時間に一本しか来ない。もちろん無人駅だ。

駅のホームから見た限りでは、木々が茂ってよくわからないのだが、背後の山はミカン畑になっている。アクセルロッド家の墓は、ミカン畑の向こうに見える遠浅の海を望んでいる。

『自分は死んだら、飽かずに海を眺めてることだろう』

生前、我が師はこういうことを言って、浪漫主義にかぶれるわたしを喜ばせたものだ。

師の隣には、彼の言うところのたぐいまれなる天使、師の細君が眠っている。そして、息子スティーヴの墓がそのまた隣にある。哀れなる彼は、また、どこまでも強き青年であった。

わたしは、師の奥さんとスティーヴに直接の面識はない。わたしが師と出会ったとき、既に彼らはこの世の人ではなかったのだった。



高校の卒業式が終わり、校門を後にしたときのことである。友達がおらず、独りトボトボと歩いてたわたしは、これまでに経験のない、しかしすでに知っているような感慨らしきものに襲われ、校舎を振り返った。わたしはこれをどこで見たのか思いだした。務めを終えた高倉健であった。つまり、あの建物が監獄であったことを初めて認知したのであった。

それから早くも半年後、わたしは『新世紀エ○ァンゲリオン』に狂った。内気ではにかみやで繊細なために、人と関われないわたしは、社会に参画できないみずからの属性を罪と感じた。我が生涯の師、アクセルロッド教授と出会ったのは、ちょうどそのころの話だった。

師は、わたしの青臭くも麗しい告白を聞いてくれるただ一人の大人であった。思えば、こういう所にわたしのような内向的で愛らしい青年を待ち受ける罠があったりするのだが、その手の議論はひとまずおいておこう。

師によれば、息子のスティーヴも類似する症例に悩まされたらしい。そこで師は、こういう事をスティーヴに語ったそうだ。――社会というものは、関わるとか関われないとか、そんな生やさしい次元のものではない。世界は常に眼前に迫っていて、そこから逃れることは不可能である。むしろ、ただ人として生まれただけで、否応なく巻き込まれる類のものである。だから、そこに関われないと悩むのは、あまり意味がない。悩んだ時点で、既に関与している。人に気後れを感じるのは、単に性格の問題で、それは決して罪ではない。そしてこの世界は、君にとって幸せな場所を提供できるほどには、寛容なのだ。あとはそこで、気長に君の天使を待てば良い。


この理屈が正しいかどうか、わたしにはわからないし、師も、ひとつの論法として語ったに過ぎないだろう。ただ、スティーヴにとっては何らかの支えになったようで、その後、彼は無事に学業を終え、仕事に就き、やがて天使を見つけた。

天使は、父の書斎にある封印されたケースの中に眠っていた。永遠の夕焼けに染まるあの学校の屋上で、盲目の先輩はスティーヴを待ち続けていたのだった。結局、牢獄は終わってなかったのである。

彼女がスティーヴを廃人にするのに、そう時間はかからなかった。かの先輩の神秘的な力によって、アクセルロッド家の人々は全滅したのだった。

もっとも、当時、まさに滅びつつあった師は、半ば自棄糞だったとは思うが、概して快活な様子でもあった。今度は自分が先輩を滅ぼすのだ、と師は語った。自分が滅べば、自分の記憶せるみさき先輩というあの現象も、滅びてしまうのだ。自分はそのときが楽しみで仕方がない。

師は天使に出会えたのだろうか?



わたしは、小さな女の子を連れて、スティーヴの墓前に立った。「ここにパパが眠ってるんだよ」と彼女に語った。彼女の母親を誰も知らない。しかし、彼女をわたしに託すとき、アクセルロッド教授は確信を込めていった。スティーヴの見つけた天使の子だ、とんでもない天使に育つぞ。

なかなか来ない電車を待って、わたしとその天使は、浜辺に降り立った。冬の海は人もまばらで、代わりに、巨大なクラゲが所々に打ち寄せられていた。わたしたちは、クラゲを木切れで突き、そのゼラチン質の感触から、スライムを倒して経験値を上げるかのような気分になり、たいそう愉快になった。静流の残像は知らぬ内に消えたようだった。


週明け、わたしはいつものように会社で朦朧とした境地に達した。我に返ると、わが親愛なる師から、最後の通信が入っていた。

『さよなら、なつかしき我が弟子よ』

 2006/03/13

物語の分断される場所 : 熊倉隆敏 『もっけ [4]』

#19の「エンエンラ」

静流は高校の先輩を紹介される。

このひとは、紹介した友人の芙美が述べるように、師匠キャラとして造形されていて、冒頭から、静流に一席をぶち始める。ページをめくると、説教を終えた先輩は、フフンと得意げに静流を見下ろしている。対して、静流はシュンとなってる。

語り手の意図はともあれ、本作にあって、力関係の上位にある者は驕慢を以て語られることがある。ここの先輩も、意図せざる先輩風を静流に浴びせている。

ただ、先輩の優位性は完全とはいえない。静流の困惑は、先輩風の不快というよりも、先輩の認知し得てない病を把握してしまったことに由来するようだ。先輩を憑き物に憑かれているのだが、静流にしかそれは見えない。したがって、そこに情報の格差がある。先輩の博識と静流の技能が微妙に均衡している。

ところが、かかる関係は、22頁目で逆転してしまう。

強者の内面が語られないように、あるいは、天然の内部が計り知れないように、物語は先輩の視覚を基本的に語らない。しかし、例外として一カットだけ、彼女の主観カットが作中に設置されている。先輩の天然にいらだった静流が、会話を中断して、場を離れようとする。すると、先輩は、静流を不思議そうな顔で眺め、直後に、該当のカットが何気なく入る。今まで語られなかった、まるで異質な意味合いのカットが入るのだから、強烈な違和感が混入してしまう。

『もっけ[4]』22頁
熊倉[2005:22]

これはきわめて教科書的な図式と言えるだろう。内面の抽出されたものは、力関係にあって弱者に設定される*1。先輩の転落が内面開示の一触れで語られているのだ。また、定例として最後に行われる静流祖父の訓話も、視覚の運動にともなう力関係の動態に触れている。

『もっけ[4]』22頁
熊倉[2005:32]

先輩の内面開示はそれっきりで、関係が逆転した後にも、やはり彼女の内語は語られない。代わりに、静流の優位性を表現するために、語り手は、訳のわからない怪物の制御に成功したような達成感を静流に付加している。『もっけ』らしい後味の悪さである。


*1:「物語視点人格(キーワード)」を参照。

熊倉隆敏, 2005, 『もっけ第4巻』, 講談社

 2006/03/16

郷愁体感と消失物回収の相反関係 : 榛野なな恵 『Papa told me [14]』

#62の「ムーンライト ウォーク」について。

まず前提として、知世母の写真が、赤の他人にとっての郷愁であり、かつ、回復すべき消失物となるステータスを設定せねばならない。知世自身ではなく、あくまで他人にとって、である。知世が母の代替物として利用されるからだ。

『Papa told me[14]』25頁
榛野[1995:25]

その置き忘れられたアルバムは、少年の引っ越し先で見つかる。

写真の娘を探して少年は町をさまようのだが達せられない。町角の向こうに彼は少女の家を空想する。しかし、その角を曲がることはない。

『Papa told me[14]』50頁
榛野[1995:50]

『ぼくとフリオと校庭で』('83)がいきなり踏襲されていて戸惑ってしまうが、ともかく、このイベントが大人となった彼に後悔ある郷愁として継承されたことは明かだろう。かくして準備は整い、後は知世を彼の前に投入して、失われた、あるいはそもそも出会えなかった少女を、代替的に回収するだけとなる。

恋愛AVGのシナリオだと、そこで泣きむせびつつもクレジットに突入する頃合いだと思うが、榛野は、知世の投入が彼にもたらす効果にやや異なる眼差しを向けている。知世は写真の少女ではなく、むしろあの町角を想起させる。

『Papa told me[14]』57頁
榛野[1995:57]

その遺失物は、少女から風景へとすり替わることによって、二重に代替されたといえるだろし、また、知世の投入を少女の回収に割り振らないことは、町角の郷愁体感と関連していると思う。それが回収された途端に、郷愁の感覚は失われてしまうのである。ここで語り手は、遺失物を回収してむせび泣くよりも、メランコリーでうっとりするような情緒に傾斜したようだ。言いかえれば、かかる二つの感傷は、トレード・オフの関係になってしまうのだろう。

榛野なな恵, 1995, 『Papa told me 第14巻』, 集英社

 2006/03/28

キャラの風景化 : 田中ユタカ 『愛人』[1]

ここには、彼らを他人の風景として語りたがる欲望がある*1。時に、かかる焦燥感は、他人による回想という形で、時系列を転倒させてしまう。物語のベースにある淡い三角関係のフォーマットも、イクルとあいを、ハルカの視角に配置しようとする運動を介助している。

語りのテクニカルな面から見れば、キャラの執拗な風景化は、語り手の資質と関連づけてよいと思う。本作にあって、キャラは風景化されることで、初めて感傷を煽り始める。もちろん、キャラ自身の視点で感傷を語る手法もあるのだろうが、語り手は自身の技能が前者に宥和することを自覚しているようで、したがって、頭の弱い娘ゆえに、自身の感傷をなかなか語れないあいは、その死後、イクルの手紙上で人生を定義される(#41「手紙」)。前触れもなく時間は二人の死後へと容赦なく飛び、彼らを回想する他人の視角が語られてしまう(#35.5「雪景色」)。二人のストーリーラインと有機的な連関をもはや持たないと思われる地球大の災厄も、衝動せる風景化の臨界と解釈できるだろう。

言葉を返せば、イクルもあいも、彼らの視角の中で自らを語る限りは、感傷を語るのが難しい。だから、繰り返しになるが、物語戦略はイクルを風景化する方向へ進んでしまう。他方で、あいの視角はなかなか語られることもなく、絵日記の形を取りがちである。これもまた風景化のバリエーションといえるだろう。


ところで、イクルの風景化する過程の方は、典型的な視角/力関係の移転をもって語られており、図式的にわかりやすい。

#41「手紙」で彼は失明に至り、光学的な視角を失う。そこから二頁後、ハルカに遺言をする場面が来る。

『愛人[5]』175頁
田中[2004:175]

まず、二人の並ぶフルショットが語られ、視角は彼らの高低差によって、イクルからハルカへ流れるかのように運動する。そして、ハルカのアップショットが次のカットにやって来て、語り手は彼女の心理に接近する。そこで物語の視角は、イクルからハルカへ移転している。



田中ユタカ, 2004, 『愛人 第5巻』, 白泉社

 2006/03/29

公共の強迫観念と視角のパッケージング : 田中ユタカ 『愛人』[2]

メインのタイムラインを継承したハルカの視角は、そのまま最終話へと引き継がれるのだが、この話数も終盤に至ると、視点はまたしても移動してしまう。最後の風景は、イクル夫妻の子どもへ渡される。そこで彼の視角は、以下の如くなものを捕捉している。

『愛人[5]』286頁
田中[2004:286]

ショットの状況を補足すると、手前にある影が、これから世に出ようとする遺児の後頭部で、このカットは、いわば彼の見る初めての風景を語っている。彼の目前に帯空するのは、あいの絵日記である。おそらく、彼を見守るハルカとその一味が、紙片を提示していると思われる。

野暮な話にはなってしまうが、紙片を提示したハルカらの動機を倫理上のスキームから眺めると、善意、あるいは公共の強迫観念とも言うべき、いささか病理的な切迫感が現れるようである。

「世界のすべては 全身全霊で 君を祝福している ! !」
(田中[2004:283])

だから、実効的な人生を成立させる義務が生じる、となる。

この感覚は、ホームビデオで自らを語ろうとするイクルの両親、あるいは、謎の宇宙人の動機にも見受けられる。

かかるイデオローグの表出が猟奇的なものに感ぜられてしまうのは、中身の善し悪しと言うよりも、単に伝達上のテクニカルな問題に帰せられそうだ。イデオローグはイデオローグとして把握された途端に効果を失うといった、語りの洗練上の問題である*1

ただ、視角の問題に戻ると、これもやはり風景化に行き着く一連の運動といえるだろう。そのカットにあって、絵日記という風景になったイクルとあいは、子どもという他人の視角の中で風景となっている。

また、絵日記をあいの視角のパッケージングされたものと解すると、物語は、彼女と息子の交叉する視角を語り始めることになる。



田中ユタカ, 2004, 『愛人 第5巻』, 白泉社


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