2004年11月の日記

 2004/11/01

機能分化と戦う住み込みメイドさん

世界が機能というタームで分割されるにともない、わたしどもは多様な対人関係のシークエンスを併走させることになる。家族という呼称で構成される対人シークエンスもあれば、同僚という呼称で構成されるものもある。言いかえると、家族やあるいは友人の呼称で相互交流の対象となってる某は、同時にわたしどもの知らない所でわたしどもの知らない個体と同僚なり恋人なりの対人関係シークエンスに関わってる。

同じシークエンスのメンバーが、それ以外の複数からなる相互作用に関与していることは、その個体に対する個人的な情緒の盛り上がりに比例して、不安と混乱の温床を形成するように思う。たとえば、ぼーーーーっとしてて脳天気そうなみさき先輩が、案外に愛の享受を被りやすいタイプで、らぶらぶレターをもらったこともある、という情報に接したとき、わたしどもはたいへんに動揺してしまう。

わたしどもは、みさき先輩がわたしどもの知らない対人シークエンスに参与していることを不安に思うにもかかわらず、それを彼女に禁止することはできない。相互作用の関与者のそれぞれは、自分がその相互作用以外でも義務を果たさなければならないということへの配慮を、その相互作用において相手に求めることができる(Luhmann[1984=1993:764])。世界の機能分割によって誕生する倫理である。


前に言及した如く、同じメイドさんでありながら、まほろさんと雪さんは、彼女たちを規定する倫理観について鮮やかな対比を構成している。まほろさんがわたしどもの住まう世界の倫理に近似した思考を成すのに比べて、雪さんのそれはプレモダン的だ。まほろさんは、わたしどものメイドさんでありながら、同時に異星人の侵略と戦う謎の組織の構成員でもある。しかし、雪さんに、かような怪しげなる組織的背景は欠けている。わたしどもの専属メイドさんであること以外に、雪さんの関与するシークエンスはない。

娘に対するわたしどもの欲望は、絶えず二律背反に晒されてるといってよい。娘がわたしどもの知らぬシークエンスに関わることを望まないが、一方で倫理が、娘の行動に対する寛容をわたしどもへ求めてくる。メイドさんが住み込みでならぬ理由は、この背反への対処であるように思う。娘がわたしどもの専属であり、他のシークエンスへ関わる機会が薄いことに、合理的な理由が求められているのだ。そして、娘がしばしば難病を患い、長い療養生活を余儀なくされたり、あるいは癇癪持ちでコミュニケーションの能力に阻害があるのも、わたしどものとの専属関係に対する合理化と解釈することもできるだろう。


Luhmann, N 1984 Soziale Systeme : Grundriss einer allgemeinen Theorie, Suhrkamp Verlag



 2004/11/09

空間表現の座標軸

映写幕が平面であるために、空間は空間そのものではなく、代替する手法で語らねばならない。それは、モンタージュによって、異なる複数の視点に場所がさらされることで、語られるだろう。あるいは、パースベクティヴを強調するオブジェの配列が、それを語るだろう。

小津安二郎が瓶や湯飲みの配置で空間を語るとき、それらのオブジェは静物であって、動くことはない。対して、黒沢清は、一定空間にあって、奥に進んだり、手前に戻ったりする人物を、モンタージュで割らない情景ショットで眺めることで、空間を語ってる。『復讐・運命の訪問者』の冒頭、男たちは河原で人を殺し、建物の中で人を殺し、また外に出て発砲を続けるが、これら一連の動作はワン・ショットの内に語られる。視角は、シークエンスの頭と末端でフォローするのみで、カットの多くは殺戮を遠景で描画している。続編の『蛇の道』でも、部屋の中を淡々と縦横する哀川翔を、視角はワン・ショットで見守ってる。哀川は動くことで、つまりオブジェの配置に時間軸を導入することで、空間を語っている。

固定した景観の内に運動するオブジェが銃撃戦を行う『運命の訪問者』は、その様式的発祥を、『ソナチネ』に求めることができるだろう。銃を抱えた北野は、カメラを置き去りにして建造物に入ってしまい、いったんはわたしどもの視界から消失する。残されたカメラはパンアップして、建物上層の窓に映えるマズルフラッシュを捉える。北野が建造物に入り、階段を上って、部屋にたどり着き、殺戮を展開するという空間表現が、わずかパンアップ一振りのみで語られる。その効率性が、カットを官能的にしている。


『キル・ビルVol.2』は、教会で行われてるであろう殺戮を、視点が構造物の外に置かれるため、音声情報だけで語る。北野の銃撃シークエンスとプロットが似ている。しかし、空間を描画する手法には根本的な違いがある。北野も黒沢も視角の立体的な移動には禁欲的で、オブジェの移動に空間表現を託しているのに比して、タランティーノの視角は躍動する。ここで空間は、建物の内から外へと線上に後退する視角と、逆に建造物へ入ってゆく人物の運動差で語られる。

タランティーノは、『Vol.1』でも視角自体の運動で空間を語ろうとしてるが、そちらの方はいささか混乱したワンシーン・ワンカットで終わってる。空間の感覚は、運動のズレを認知する座標軸を必要としてるようで、黒沢は視角を限定することでそれを設置する。視角もオブジェも動く『Vol.2』は、両者の運動を同一線上に限定することで、軸となるべき消失点を浮き彫りにする。一方で、『Vol.1』は座標軸に欠け、空間の混沌を視角の混沌で語っており、腰を落ち着けて栗山千明を愛でる暇がない。何とも無念な話である。


 2004/11/11

『ローゼンメイデン』は、引きこもりに「お兄さん」「おねえさん」を派遣して社会復帰を強迫するNGOのパロディみたいなものか。水銀燈さんは、そんな体育会系団体の活動を阻止すべく送り込まれた刺客に相違あるまい。おそろしいことだ。


 2004/11/16

コメディの累積自虐



「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥ずかしさに顔をまっ赤にして叫んだ。

「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」

「黙れ、黙らないと殺すぞ!」

(『カラマーゾフの兄弟』)



よく知られているとおり、恥辱の見本市ともいうべき思春期にあっては、ポエジーなテクストを作成してしまう行為というものがしばしば見られ、それらの詩作は、将来において当事者の羞恥を招来することになる。冒頭に引用した景観も、その典型であり、クールなマテリアリストのイワンたんは、毎晩のごとく、おのれの思春期の残した負債に悶えねばならない。たいへんに愛らしいことだ。

幸いなことに、このドストエフスキーのケースでは、イワンたんの詩作をめぐる錯乱は、自分の心的経験の中でほぼ完結している。ダイアローグの相手は、他人ではなく自分であり、したがって恥辱は他者の知る所ではなく、それだけに威力に欠けるように思う。ここでは、むしろ、そのくらいで人事不省に陥るイワンたんの乙女な感受性を愛でるスタイルになっている。

本当におそろしいのは、詩作の客観化であって、つまり他者の目に曝されたときである。こうなるとイワンたんでなくとも、人は気が違って行かねばならず、物語はそんな人間の取る珍妙な行動を愛でる景観を語るだろう。


”『すげこまくん』第3巻27頁"
永野のり子 『GOD SAVE THE すげこまくん』 第3巻 27頁


思春期の詩作は、その普遍性がゆえに、自伝的なテンプレートでも語られやすい。そうなると、恥辱性は、その実存性の高まりとともに最高潮に達する。

”『サルでも描けるまんが教室』第1巻64頁"
相原コージ・竹熊健太郎 『サルでも描けるまんが教室』 第1巻 64頁


ところで、自己完結型も共有型も、恥辱する行為の語る一種のコメディである訳だが、それが実存的な様式で語られるに及んで、コメディの質が別の性格を帯びるように思われる。公共の空間に晒された竹熊のポエジーは、一見して恥辱の様態の生むコメディを語ってる。しかし、実の所それはもはや恥ずかしくない。本当に恥ずかしいものは、秘匿されるべきで、自ら開示できるものは、恥辱ではない。自虐嗜好につきまとう普遍的な問題である。

例えば、わたしどもが個人的な思い出として、『学生時代、答案用紙にエヴァンゲリオンのことを熱く語ってしまったあああああ』と告白するとしよう。これは、随分と時間を経た今なお、時としてわたしどもを発狂寸前に追い込む記憶である。けれども、いまここでわたしどもがそれに言及するとは如何なることなのか。わたしどもは心の底からそれを恥ずかしいと思ってる。同時に、恥をさらすことが心地よいと考えている。そして、けっきょくは、恥をさらして快楽を得ようとするわたしどもの奇特な行為が、喜劇になり得ないかと思い、更に、わたしどもの行為をその様に解釈するわたしどもの今ここにある視点そのものが、コントになり得ないかと思っている。

自分を虐待することで成立する喜劇において、恥辱は直截に語られず、入れ子構造で語られる。そして、いったん始まった入れ子構造は、途切れることなく重層することになるだろう。


 2004/11/24

思い出の非作為性

失われた人格を間接的・比喩的に語って情緒を刺戟する物語のメカニズムは、その思い出を産出する人格に、ある種の非作為性を要請している。思い出は、それが思い出になるという明確な意識の内に作られてはならない。

まず、この手のメカニズムの宝庫、『プロジェクトX』を例に考えてみよう。

「第76回 父と息子・執念の吉野ヶ里」。七田忠志は、小さな巻き尺を片手に息子と吉野ヶ里をさまよっているとき、まさかその巻き尺が後にNHKのディレクターに発見されて、公共放送に晒され、わたしども視聴者の嬉しい悲鳴を絞り出すことなど考えもしていない。

「第83回 国産コンピューター ゼロからの大逆転」。河原で模型飛行機を飛ばしながら人生を語る池田には、その飛行機が後々にまで保管され、NHKのディレクターに云々などとは、想定外のことだろう。

非作為性は、この様式をいかに巧妙な媒体で語るか、という問題に直結するように思う。思い出となることが明確な事象で思い出を語るのでは、芸がない。『プロジェクトX』はまだ直截的で、一点突破な感があるが、泣ける2ch関連のデジカメ話を参照すると、非作為性と語り口の技巧との関連が、明確になってくる。母親の遺したカメラのメモリーに残った息子である自分の寝顔は、失われた人格の思考を技巧的に語っている。


説諭が説諭で語られると、警戒を招来しかねない。思い出が比喩の様式を取らねばならぬのも、けっきょくは、そんな興醒め感を回避するが為の手法かも知れない。それは、同時に、心情のもっともらしさを他人に伝える際の困難でもある。例えば、臨終に至った人格が、世界に対する好意を語るとき、わたしどもは、その時期に入った人間によく見られる心理的な防衛機制が彼や彼女を寛容にしたと考えて、その心情の持つもっともらしさへ疑問を付すこともできるだろう。思い出が非作為でなければならぬ所以は、その辺にあると思う。


 2004/11/28

ハイリスクな娘
オーソン・スコット・カード『消えた少年たち』

悲しむべきことに、娘の身体はしばしば作為的である。つまり、霊的な産物だったりする。そして、それが判明するやいなや、娘はわたしども共々、恐慌することになるだろう。

身体の作為性に言及する物語の様式は、その身体がいつの時点で作為的になったのか、あるいは最初から作為的だったのか、という問いかけを基に分類することができるし、それぞれのカテゴリーは、作為の判明がわたしどもに与える驚愕の度合いに関して、微妙に異なる印象があるように思う。

幼少の頃に過ごした街を再訪したとしよう。そこでは、たいてい、再会することになる幼なじみが幽霊であったりして、わたしどもは吃驚しちゃう訳だが、このケースでは、実存せる物体であった幼少期の娘の身体と、霊的な身体である今日の娘との間を歳月が隔てており、娘の変容はわたしどもの身近でリアルタイムに行われる類の現象ではない。

かようなテンプレートも極端になると、幼少の頃に過ごした村を再訪したわたしどもの保護した娘が、わたしどもの前世が孕ませたものの、あえなく母胎とともに身罷って日の目を見なかった胎児であったという、よく解らぬ事態に至ってしまう。しかし、いずれにせよ、わたしどもは、娘の実存せる身体と作為的になってしまった今日の身体を対比できる地点に立たねばならないようだ。かつての有機的な身体を直に知っている方が、身体の作為性を知ったとき、驚愕が大きいからだ。言い換えれば、身体の作為性が過去の知識によって隠蔽されるのである。

作為性の隠蔽をつきつめると、けっきょくは、リアルタイムかつ知らぬ間に身体が変貌する様式へ行き当たるだろう。生きてると思ってたわたしどもが、既に死んでいたとなっては、たまったものではなく、したがって判明時の案外性について効果が高い。

ただし、リアルタイムな変容は、たいへんにリスクの大きな問題も抱えている。過去と現在によって区別されている身体は、時間のという緩衝剤によって身体の断絶が補われているが、リアルタイムに変容すると嘘がつけなくなり、その断絶の隠蔽するのに苦労をする羽目になってしまう。結果として、物語は一瞬ではあるが不自然な間を晒さざるを得ず、その意味でこの様式には、リスクがある。


さて、『エンダーのゲーム』で作為性が非作為な状況へ知らぬ間に転換する様を語ったオーソン・スコット・カード。『消えた少年たち』では、その逆転を語ってる。つまり、本稿で議論したような身体が作為的になるテンプレートであり、しかもリアルタイムなリスクテイカー型である。もっとも、そのリスクは、物語の構造配分によって、いささか興醒め的に回避されている。隠蔽の発覚するリスクは、変容以降になって初めて発生し、物語において変容した身体の占める時間が長ければ長くなるほど、増大すると考えられる。カードが行ったリスク回避とは、それを逆手にとったもので、変容前の身体が占める時間に比して、変容後の身体がわたしどもの視界に晒される期間はごく僅かだ。リスクは根本から軽減されている。ハイリスク・ハイリターン型と思われたリアルタイム型も、時間配分を変えることで、ローリスク型になってしまうようだ。


 2004/11/30

失踪したメイドさん
太宰治『津軽』

現実問題として、優しげなるメイドさんは、いつまでも優しげなるメイドさんであり続けることはできない。メイドさんはメイドさんである前に一人の女性であり、メイドさんという役割が、彼女のライフサイクルをすべからく占有することはできない。したがって、わたしどもご主人様は、優しいメイドさんをいつかは失わねばならぬという潜在的な不安に苛まれることになる。そして、この不安は必ず顕在化する。わたしどもご主人様は、雪さんを失わねばならないのだ。

優しいメイドさんが失われる以上、優しいメイドさんに言及する物語は、彼女を失い壊乱するご主人様の物語でもある。そこで展開される景観は、メイドさんへの想いが猛り狂うにつれて、病的になるだろう。いわゆるマヨイガである。


太宰の『津軽』('44)は、幼少期に失ったメイドさんと再会するロードムービーであり、『水月』の語る印象的かつ病理的な物語、つまり失ったメイドさんを回復すべく狂走するご主人様のモチーフが語られている。終盤、太宰はらぶらぶなかつてのメイドさんの姿を求めて、運動会の中を奔走する。まるで雪さんを失ったわたしどもご主人様が、「マヨイガ」を求めて山林をさまようように。


ところで、『津軽』のメイドさんには、ご主人様の高齢化に伴うメイドさんの年増問題を想定せねばならず、つらいところである。当時の太宰は三十七で、容貌だけは立派な中年おやぢだ。ナイーヴ演技でおねえさんを釣りたい放題だ。奥さんの美知子さん萌えとしては憤怒極まりない。それで、メイドさんの方は五十代に突入で、これもなかなか難しい。そこで、太宰がイヤらしくも活用するのが、二世代間らぶらぶという物語の装置である。メイドさんの娘さんが登場するのだ。太宰!

ちなみに、娘は推定十四〜十五歳である。これはもう犯罪といわねばなるまい。



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