2004年12月の日記
生活世界に中にあって、景観は、観察者の身体の移動にともない、その見かけを持続的に変化させてゆく。遠方に見える電柱は、わたしどもが前方へ進むにつれて拡大し、やがて視界の隅に消えてしまう。ところが、映写幕の景観にある電柱になると、事情は異なってくる。電柱の見かけが拡大してきたとしても、わたしどもはそれに応じて身体を動かしている訳ではない。恐らくは、映画館の座席に神妙な顔をして座っていたり、自宅の床に転がって鼻くそをほじってたりするだろう。
電柱は、観察者との距離に比例して、様々な容貌を開示する。はるか遠くにあるそれは、鉛筆の如くかも知れないし、鼻先にあるそれは、視角を覆う灰色として見えるかも知れない。しかし、それだけ様相を変えても、わたしどもにはそれが同じ電柱であるという認識がある。わたしどもは、移動につれて変貌してゆく景観の中に、何か変わらないものを見出してるのであり、いいかえれば、観察点の移動によって、景観のある特徴は変わるが、他の特徴は変わらない(Gibson[1979=1985:77])。そして、わたしどもは、景観のこの特性を、世界を把握する手段として利用している。変化は観察者の移動によって生じていて、無変化は環境の面の不動の配置により生じており、それゆえに、無変化は環境の配置に関する情報となり、変化は移動それ自体に関する情報となる(Gibson[1979=1985:77-78])。
映写幕の景観が、その描画にあたって、カメラワークに一定の法則を課すことは前に述べた。視角は、あくまで視点の座標軸を特定できるような形で軌道を描かねばならず、さもないと鑑賞者は映写幕において自分の位置を見失ってしまう。なぜなら、どんなに世界の景観が変貌したとしても、彼は座ったままだから。視覚系の情報が、筋ー関節系から得られる情報と一致しないと、観察者は景観を把握できず、混乱する(Gibson[1979=1985:126])。したがって、映写幕の観察点は、それ特有の様式や文法を発達させることになる。
ゲームと映画の違いは、ある運動の結果として景観が変貌するという経験の有無にある。この差が、ゲームの景観と映写幕のそれを異なるものにしている。ゲームとしては最低限のフィードバックしか持たないギャルゲーですらもその差は決定的で、映画では想定できないような、単一の主観ショットがいつまでも持続してしまう景観が広がる。逆に言えば、3Dで空間の構成された映画のシークエンスが、「ゲームの如く」と批判を受ける際、わたしどもは、フィードバックの有無に去来する映画とゲームの分かれ道とそのはき違えを、そこに見ていることになるだろう。
Gibson,J.J. 1979 The Ecological Approach to Visual Perception, Houghton Mifflin Company=1985 古崎敬他訳 『生態学的視覚論』, サイエンス社
基本的に私は孤独を愛する人間ではあるが、時としておセンチになり、楽しげに会話の花を咲かせる人々を羨ましく思い、人知れず布団の中で落涙することもしばしばである。事務的な話はともかくとして、たわいもない話題で話をするのが難しい。あまりにも繊細なので、相手に気を遣いすぎてしまい、何を話せばよいか、そもそも話しかけてよいのかどうか、わからなくなってしまう。
自惚れ強い私は、自分の繊弱かつ優しげなる気質にうっとりと自己愛を催される。しかし、世間はそう解してくれないらしく、あいつは無愛想だ、人を見下してる、などと謂われない中傷がまことしやかに語られ、私はひとり布団の中で落涙する羽目となる。性格に由来する悲劇である。
このように、繊弱かつ優しげなる気質に生まれてしまったために、私は人一倍、自分の陰口に対して敏感だ。今、会社の三階で撮影のN氏が私を誹謗してるに相違ないと想像するだけで、気が狂いそうになる。けれども、現実はもっと過酷であった。N氏はおろか、長年、同じ制作として苦楽を共にしてきたO氏や、本来ならば、小動物の如き脆弱な私を擁護すべき、親愛なる上司のK氏まで、私の誹謗中傷に荷担していたことが最近判明してしまった。私は絶望を覚えた。
後日、私はO氏に抗議をした。私の如き繊細なる人間にはそれ相応の扱い方があるものだ、と涙目で訴えた。すると、「私の如き繊細なる人間」というフレーズが、近くにいた同僚たちの笑いの壷を刺戟したらしく、嘲笑が聞こえてきた。
その晩、私は布団の中で落涙した。
翌日、失墜しつつある心持ちを懸命に支えながら仕事をする私を呼び止める声がした。親愛なる上司のK氏である。氏は満面の笑みを浮かべて仰った。
「すごいよう。来週のTo Heart、マルチの耳がとれるんだよう!!」
生と死をめぐるサイクルのイメージは、アカデミックな知見からすれば、本当にそんな循環が存在するか、という問いかけよりも、むしろ、人生の一回性・不可逆性が否定される想定下で、人はいかなる行動をするのか、という観点から問われるべきものだろう。しかし、わたしどもとしては、もう少し異なる視点から、リンカネーションという現象を考えてみたい。すなわち、ある個体から別の個体へ転送されるとき、記憶はどのくらい継続するものなのか? そして、記憶継続の可否は、感情高揚の工学にとっていかなる意味を持つのか?
今の身体に転送される以前の記憶は、その確証の幅において、さまざまなヴァリエーションが考えられる。それは、怪しげな心理療法の誘導によって想起されるおぼろげな記憶かも知れない。あるいは、一週間前のそれと何ら変わらぬ鮮度を維持してるかも知れない。
例えば、幼少の頃に一時期を過ごした村を、十年ぶりくらいに訪れ、そこで、幼なじみと称する白痴の女子高校生に求婚されたり、金田朋子声を発する身寄り無き童女を保護したとしよう(『SNOW』)。このケースにおいて、何らかの転生物とされる白痴の娘には、転生元の身体の記憶が欠けている。他方で、金田朋子自体が、転生された身体かどうかは議論の余地があるものの、彼女はやがて、わたしどもと白痴の女子高校生の間で生まれた女児の身体へ送り込まれる。女児は記憶継続を示唆する言動で、わたしどもを破壊してしまう。結果として『SNOW』は、記憶が継続するか否かにおいて、ふたつのタイプのリンカネーションを同じ物語の中で語ってることになる。
『おもいでエマノン』はどうであろうか? そこでは、同じ身体が記憶を継続し、かつ同時に、記憶を継続できないことになる。記憶は完全に娘の身体へ継続する。ところが、娘の出産と同時に、母体の記憶の方が失われてしまう。
多様化したリンカネーションを語る『SNOW』や『エマノン』に比すると、平谷の『エンデュミオン』は、古典的という形容に値するだろう。ただ、平谷にあっても、記憶継続型のリンカネーションが両者と同じモチーフにおいて語られてることに注意してもよい。いずれも、転生し記憶を継続する当事者の主観は、あまり問題とされておらず、物語が語るのは、その転生を目の当たりにする人々の心理である。
物語は、金田の内語を語らないし、エマノンの内語を語らない。かわりに、彼女たちが姿を消したことで恐慌するわたしどもを語る。
ある日、わたしどもは父親になってしまい、自分の娘がなぜか金田朋子であることを知ってしまう。プラットホームで出会った八歳の童女が、十三年前の感傷旅行でいちゃついた美少女であったりする。娘は、比喩の空間の内に見出される。
『エンデュミオン』でわたしどもがなくすのは、老衰の師匠であって、残念なことに娘ではない。師匠の没後、わたしどもは師匠の転送された身体を捜索する。それが見つかるのは十年後(=経年効果)で、師匠は少年の姿をしてる。しかし、記憶は継続している。なかなかの爆破炎上っぷりである。
『こころ』の先生は、最初からお嬢さんにらぶらぶだった訳ではない。お嬢さんに対する先生の恋愛には、第三者のKが必要だったのであり(柄谷[2001:493])、Kがお嬢さんに狂わされて、はじめて、先生は彼女にらぶらぶすることになる。わたしどもは、他者の欲望するものを望んでしまう。
三角関係は、二人の関係を規定するために犠牲になる生け贄キャラの物語でもある。先生にとってのKは、そもそも彼がいなければ先生の恋愛そのものが成立しなかったという意味で、恋愛という現象における三角関係の普遍性を示唆している。
ところで、表層的に見ると、彼らの三角関係は、お嬢さんが選択を強いられる前に、終わっていることになるが、ことによると、三角関係は人に選択を強いることになるだろう。そして、彼女の選択行動に注意するとき、三角関係の別なる機能が見えてくるように思う。その選択が、彼女の人格を規定し始めてしまう。
例えば、レティシアが、アラン・ドロンよりもリノ・バンチュラ(48歳)を選んでしまった景観に見る夢と浪漫みたいなもので(『冒険者たち』)、それは、また、木村先生を愛してしまった木村先生の奥さんに見る夢と浪漫のメカニズム(『あずまんが大王』)と似ている。アラン・ドロンよりも中年おやぢを選んだ人格に対する好意の付加であり、同時に、容姿ではなく性格造形傾斜主義に対する幻想じみたあこがれである。
ただ、憎いことに、選択はいつも機会を逸してるといわねばなるまい。お嬢さんは選択すらできなかったし、レティシアの意思が明らかになったとき、すでに彼女はいなくて、アラン・ドロンは「うそつきめっ」などと血を流しながらニッコリしてる。逆の見方をすれば、選択は機会を逸した形でなされ、意思は事後的に判明せねばならぬ、ということかも知れない。
柄谷行人 2001 『増補漱石論集成』, 平凡社
ある作品への態度が、そのお話をいかなるパースペクティヴで眺めるか否かによって、きれいに分割してしまうことがある。例えば、『エヴァンゲリオン』を謎解きとしてみるか、大好きなキャラクターの一喜一憂する様を愛でるお話と見るか、その態度の違いによって作品への評価はおのずと異なってくるだろう。前者は、人格がイヴェントに従属するものとして物語を考えており、後者は逆に、イヴェントが人格に従属するものと見ている。したがって、物語を、事件主導型/人格主導型というように分類することもできるだろう。もっとも、これはあくまで理念的な分け方であって、実際の物語を一概にカテゴライズするのは難しく、それが、『エヴァ』のように多様なパースペクティヴを許容する作品が存在する由縁となっている。むしろ、どちらかへ容易に区別のできるお話では困るのだというべきかも知れない。
そうなると、ホーガンの『星を継ぐもの』は、いささか困った形でお話を出発させてることになる。事件の解釈に忙しくて、人格は置いてけぼりをくらってしまう。学術論文にダイアローグは要らぬが、これは小説なので、仕方なく人格を配置して、彼らの発話で論文を語らねばならぬ。そんな感じであり、どうもワクワクしてこない。
ところが、である。次第に何やら怪しげな雰囲気が漂ってくるのである。
このお話は、基本的にハントさんの視点で眺められ、語られている。ハントさんは社交スキルの高い人なので、学者莫迦で自説を曲げず、周囲から疎まれがちなダンチェッカーさんにイライラだ。お話は、ダンチェッカーさんの独りよがりな態度を強調し、彼に対するわたしどもの心証を阻害する。
そんな二人に到来するのが、ガニメデ送りイヴェント。これは危険きわまりない。木星まで半年間も密室の中である。案の定、ウブなおやぢどもは瞬く間に、( ´∀`)σД`)。ハントさんは「一杯やらないか」(222頁)と甘言を弄し、ダンチェッカーさんは慣れぬ冗談で返し、「なんとダンチェッカーは自分から冗談を言ったのだあああ!」(223頁)とホーガンに描画される始末で、嬉恥ずかしい。
後は、もう、学者莫迦のダンチェッカーさんを如何にかわゆく造形するか、ということに資源が集中されることになる。例えば、ガニメデの基地に入ったダンチェッカーさんは、興奮の一途。「クリスマス・イヴを迎えた小学生のように」(249頁)はしゃぐ。ハントさんの卑猥なジョークもまったく解せず、「え? 何ですって?」(同頁)と目を白黒。ハントさんは溜息をついて「いや、なんでもないよ、クリス」(同頁)。ついにダンチェッカーさんのファーストネームを口にしてしまう。
ところで、このお話自体は、おもいで残留の古典的な活用で幕を閉じている。使われてるのはきわめてオーソドックスなアイテムであるが、感傷を効率的に煽られて心地よい。ダンチェッカーさんの萌え演説が、そのアイテムに感傷を見出すためのガイドになっており、おもいで残留の運用方法について、貴重な示唆になっている。