2004年06月の日記

 2004/06/02

時間と空間の代替関係

編集用のダミー素材として用いられる未彩色の線撮りカットと、ペイント済みの本撮素材の間には、同じ尺であっても主観的には継続時間に明白な差分がある。あるいは、2D素材で構成されるカットの2秒と、3Dの2秒にはデュレーションに於いて全く異なる印象がある。2Dは間が持たないが、3Dは早すぎる。アニメーションの演出家によく知られるこの現象は、情報量が主観的な時間継続感とある種の代替的な関係にある事を予感させる。情報量が増大するほど、時間が迅速に世界から退去して行くのだ。

生まれたままの原初の思考が、時間も空間も余り関係のない一点に凝縮されているイメージは、先に言及した如くである。わたしどもは、この形にならぬ霞を他者と共有すべく、原初の思考に時間と空間を与えねばならず、その展開の媒体物は、テクストから動画イメージまで様々である。そして、テクストは原初の思考を展開するために、動画イメージに比して時間を費やさねばならない。しかし、動画イメージほど物理的な空間を要さず、従ってコストがかからない。反対に、視覚と音声情報を併用できる媒体は、展開時間の圧縮に比して空間的な奥行きを必要とする。情報が時間ではなくむしろ空間によって担われるからだ。

此処でわたしどもは、この理屈を実人生にむりやり適用せねばならないような気がする。2Dカットよりも、3Dカットと時を同じくした方が、人生の早く過ぎるを感じる演出家のあの嘆きである。わたしどもは、媒体とその認識主体の間に次なるファンタジーで恐ろしげな相互作用を仮定する必要がある。つまり、一個人が生涯享受できる情報量は一定ではないのか?

一定であれば、単位時間あたりの情報量が増大すると、それだけ享受可能な情報量の消化が促進される。認識主体へ生得的に規定された享受可能情報量は、それが消尽した時点で、逆の言い方をすれば、情報量が生体の収容能力を超えた時点で、認識主体は自己を認知できる主体とは見なさなくなってしまう。物理的に生体の活動停止が早まるという訳ではない。むしろ、主観的に人生を短く感じる形を取るのである。


以上の議論から次の事を推測し得よう。出版社よりも映像制作会社に勤務する方が、主観的人生が短縮されるだろうし、ライトノベルファンよりもアニメファンの方が主観的人生は短いだろう。実に恐ろしげで無慈悲な事と言わねばなるまい。


 2004/06/03

「お兄さまっ! 地球はひとつ、割れたらふたつで正しくグローバル! 英会話必須ですわ〜。Praeterit figura hujus mundi !」

「日本語の会話すら困難なのに?」



 2004/06/05

おやぢと初期近代ヒューマニズム

トーマス・マン『魔の山』、ハンスが八甲田山をやるあたりまで読む。セテムブリーニさん萌え。

セテムブリーニさんは、莫迦弟子の策動に生活を破壊されるタイプの師匠で、莫迦弟子ハンスの冒険主義やらぶらぶ光線の見境のない放出に悲鳴を上げる。その悲嘆な仕草のひとつひとつがたいへん愛らしくて興奮を催される。殊に、ライバルのナフタさん登場以降、セテムブリーニさんの困り顔曲線は急上昇でらぶらぶだ。ナフタさんが舶来の危険思想を語り、莫迦弟子ハンスが感心の惚け顔をしたりするので、心配の余り慌ててハンスを再教化せねばならぬ。ウォン・ユンファとドモンを争奪する東方先生みたいなもので、思考の生存競争が、洗脳という形で具現している景観である。

『悪霊』のステパン先生も参照できると思われる。周辺環境への波及の度合いを以て、展開される思考の生存競争である。ただ、舶来の危険思想と互角に戦闘するセテムブリーニさんと違って莫迦息子に奇襲され放題なステパン先生は、たいへんに哀れでらぶらぶの極みだ。

というか、ステパン先生、どさくさの放浪モードへ突入してからは、聖書売りの娘を拐かしたりして恐ろしげにポイント高い。臨終間際には、御主人様のワルワーラ夫人に「あなたはどこまでわたしを苦しめるんですうっ!」とギャルゲーの如くな台詞を叫声せしめる始末で、東方先生とはまた違う形で、わたしどもに人生と世界について語って呉れている。


 2004/06/10

後期景太郎モード

引き続き『魔の山』、クラウディアさんが帰ってきた辺りまで読む。ほとんど後期景太郎モード。ただし、赤松先生よりも余程に歪んでいる。

恋仲のペーペルコルンさんを連れて帰還したクラウディアさんにしてみれば、彼女にらぶらぶ光線な莫迦主人公のハンスがペーペルコルンさんに情緒を阻害されて然るべき筈なのに、二人は友だちになったりして、結果、クラウディアさんは「ひそかにぷりぷり」(関泰祐・望月市恵訳)する。わたしにらぶらぶだったら、彼と仲良くなんてできないでしょぉぉぉ〜〜なのになのにぃぃ――という主導権逆転の描写。通例ならば、他のおねえさんに熱を上げる景観が相当すると思われるのだが。

厄介な事に、莫迦弟子ハンスの争奪戦をやっているセテムブリーニさんとナフタさんがそこに介在してくる。つまり、

セテムブリーニさん(*゚∀゚)→ハンス(´д`)←ナフタさん(゚∀゚*)

この二人は最愛の弟子を錯乱せしめるクラウディアさんへ寛容になれる筈がない。クラウディアさんも何となく二人がイヤイヤだ。

セテムブリーニさん( ゚д゚)→クラウディアさん(´・ω・`)←ナフタさん(゚д゚ )

二人にとってもっと問題なのは、莫迦弟子ハンスがペーペルコルンさんへらぶらぶ光線の発射を始めたこと。偉大なる師匠である所の自分たちが居ながらにして――である。二人はそこで同盟を結ぶ。暑苦しくも美しいおやぢだちの友情がお目見えする。

ハンス(*゚∀゚)→←(゚∀゚*)ペーペルコルンさん
セテムブリーニさん( ゚д゚)→ペーペルコルンさん(・∀・)←(゚д゚ )ナフタさん
セテムブリーニさん(´д`)→←(д` ) ナフタさん


景太郎ひとりが周辺環境からの愛を被る後期景太郎モードにあって、赤松先生は景太郎を巡って行われるべきらぶらぶの闘争を微妙にオミットすることで、ある種の泥沼を避け得たが、同時に『君望』の茜な悶えを取り逃がしてしまったとも言える。わたしどもの視点は、往々にして、らぶらぶの求心点にある景太郎やギャルゲーの莫迦主人公ではなく、周辺環境で闘争し悶えるおねえさんたちへ向かいがちだ。ヘテロセクシャルとホモセクシャルが分離不能になったトーマス・マンの後期景太郎モードで、わたしどもの情緒を高揚せしめるのは、なぜか「セテムブリーニさん(´д`)→←(д` ) ナフタさん」の密やかな友情だったりする。二人に感情移転してしまったわたしどもとしては、ペーペルコルンさんに熱を放射するハンスが憎らしい。しかしその彼こそ「セテムブリーニさん(´д`)→←(д` ) ナフタさん」の触媒に違いないのである。


 2004/06/11

『SNOW』をやってみる

『SNOW』を最初の三十分ばかりやる。白痴の娘が雪だるまになりながら落ちてきた。


余談を申せば、高校の時、スキー初心者で生来ドジなわたしどもは、コース脇の立木に衝突し、インストラクターのおねえさんの悲鳴を絞り出させしめたことがある。


 2004/06/16

成長完遂する莫迦弟子

中年おやぢの充満する汗と涙でついつい忘れがちになってしまうが、一応『魔の山』はサナトリウム文学である。時間の進行に相関して病状は着実に進行する。大概は漸進的で、人によっては急進的に悪化と相成り、物語を萌やしてしまう。

従兄弟のヨーアヒムは、急進性の美しいケースに該当するだろう。食事中に怪しい咳の突発を開始する辺りが、“観鈴ちんの足が痺れるようモード”(破滅兆候)で、興奮をとどめるのに些かの困難を覚える。担当医のベーレンスさんが、従兄弟の破滅兆候を感知したハンスを避け始める所も得点が高い。やがて告知モード→「余命〜八週間」。時限爆弾のエンターテインメントな発動である。

ついでながら、担当医のベーレンスさんも所謂“中年おやぢ”で、駆けつけたヨーアヒムのおかんへ「心臓による牧歌的結末になりますよ、奥さん!」云々と凄まじい慰めを行い、わたしどもを否応なく萌やしてしまう。


師匠のセテムブリーニさんは対照的に漸進性で、次第に床に伏せる時間が延長されるようになり、矢張りわたしどもを萌やす。盟友ナフタさんの自殺が堪えたらしい。精神が病魔の変数たり得る可能性を、かつて莫迦弟子ハンスがしたり顔で語ったとき、セテムブリーニさんは、そんなことがあってはならなぬぅぅと優しく諭した。ところが、病魔による身体への浸食が、セテムブリーニさんのそんな思考にまでパースをつけてしまう(変容する師匠)。後はもう、ギャルゲーモードへ雪崩れ込み。病床でハンスに細々と世界を語るセテムブリーニさんに悶え。別離に当たって、莫迦弟子を抱擁し接吻するセテムブリーニさんにも悶え。


結局、莫迦弟子と師匠の物語は、莫迦弟子の成長と師匠の失墜による能力と立場の均衡点に、情緒の高揚する所があるように思う。物語の終末で、ハンスは世界が崩壊する真っ直中に赴かねばならぬ。ベルクホーフを去るとき、セテムブリーニさんによるハンスの人称がSieではなくduに変わっちゃったりしていて、そのあざとい解りやすさに悶え狂い気味。


――と、まあ、莫迦弟子と師匠への倒錯的な憧憬を大いに煽られて、形而上の鼻血の放出せねばならぬわたしどもであったが、それから五時間余りを経た所で、早々につぐみさんの旅館を潰してしまい、高揚は灰燼してしまった。


 2004/06/20

物語素のコンプレックス

『Papa told me』の41話、「ダイヤモンド・スカイ」は、情緒高揚の複合技でわたしどもを転がして呉れる。

いわゆる百合子ちゃんの「働く女の処世訓」シリーズの一環。高校生の百合子ちゃんはドジ娘傾向で、今日のクールな百合子ちゃんとの隔絶にわたしどもは少なからぬ情緒を刺激される。世界は常にかわゆいドジ娘を放置しておけず、彼女には人生を語って呉れる師匠があてがわれる。師弟的な友情関係がそこに成立する。

師弟という無性にわたしどもの憧憬をかき立てるタームが、互いの関係の軟着陸な結末と親和性を持たざるを得ない宿命に関しては、言を待たない。師匠は変容するし、弟子は成長する。その関係の逆転が物語を産出する。

成長を遂げてくーるになった百合子ちゃんが同窓会で出会うのは、かつての師匠の変わり果てた姿だ。嗚呼、泥沼人情――とたいへん解りやすい。けれども、榛野先生は、百合子ちゃんをただの変容する師匠な物語の類型では終わらせない。トラウマ再現が物語に合流してしまうのである。

師匠の変容により、自我の危機が百合子ちゃんを訪れる。が、失意の日常を送っていた百合子ちゃんにドジ娘の部下があてがわれた時、百合子ちゃんはいつの間にか他者の師匠になっていた自分を見つけてしまう。矢島正雄モードの暴発だ。

もうこの辺りまで来ると、榛野先生の興奮も高潮の極みに達したらしく、ポエジーな説教が止まらなくなる。「あなたは大切な未来のはんぶん〜♪」「ジャングルジムの向こうにはダイヤモンドみたいなそら〜♪」云々と目も当てられない語句に鑑賞者は転がりを迫られる。


わたしどもが榛野先生から学べることは、単独のテクストでは処置不能な説教ポエムを、鑑賞者に転がりを課すまでに情緒にとって必然的・説得的にしてしまうシナリオ工学や演出の作用である。野暮ったい筈の人情の泥沼が、物語の過程で「観鈴ち〜〜〜ん」と鑑賞者の思考を狂わせる現象は、しばしばギャルゲーでもお目にかかる。物語の不思議について、わたしどもを煩悩せしめる所となる。


 2004/06/26

自我の継続性と経年効果

『SNOW』の娘どもが、わたしどもの感情高揚に際して明暗を分けるポイントは、自我の継続性に由来する経年効果を娘が活用できたか否かにあると思われる。

ここで言う自我の継続性は、パートナーとの間にある生存期間の極端な相違みたいなものである(相違する時流)。物理的に共有できる世界のすれ違いが、切なさの暴発を醸成する。『SNOW』の娘どもを自我の継続性に応じて分類すると、以下の如くになるだろう。

非常識な自我継続グループ(数世紀単位)
  • 獣っ娘
  • 孤児
  • 龍神さま(姉)
  • 芽衣子さま


  • 常識的な自我継続グループ
  • 莫迦主人公
  • 白痴娘


  • 非常識グループの娘どもは、生存期間の相違から、常識グループのパートナーを失わねばならない。そして、この手の物語は、いったんは世界を共有できなくなった喪失者との再会を通して、鑑賞者の情緒高揚を企てる。ただし、娘どもはその救済の享受までに膨大な時を経ねばならぬ。経年効果とは、喪失と救済の間に介在する歳月の作る情緒といってよい。

    主人公男と白痴娘は、ギャルゲーのシナリオにとってはごく標準的なリンカネーションで語られる。彼らは前存在の記憶を持たないがゆえに、自我の継続チームには属さず、よって、このふたりがいちゃつく景観は、たいへん傷ましい(これに関しては後日に言及しよう)のだが、感傷的な情緒はあまり刺激されない。常識チーム内の相互作用は、経年効果を活用できないのだ。したがって、わたしどもはグループをまたぐ交渉を語らねばならないだろう。


    一片たりとも幼女愛好癖を有しないごく善良な市民である所のわたしどもとしては、けもの娘と孤児娘に情欲を刺戟される所などこれまた一片もないと断言して然るべきであるものの、他方で薄幸な娘を保護したい欲望に常日頃さいなまれるわたしどもが、孤児の娘を是が非でも保護したいと願うのも無理なからぬことである。けれども、他の娘を攻略せねば、その娘の尻の追尾には能わない世界の仕組みらしいので、仕方なしに、けもの娘の尻を追尾せねばならぬ。が、これほど情欲の刺戟と無縁な人格造形も珍しい。

    『SNOW』の素直な物語の構造は言語に絶する。白痴娘は痴呆症になり(朝飯と昼飯がおなじだああ→破滅兆候(゚∀゚)!!)、けもの娘は三重苦になり(なぜそんなに転ぶううう→破滅兆候)、孤児娘は原因不明の発熱に襲われる。「しあわせだったよ〜」とか「ボク消えるのはいやだよ〜」とか「わらわは父上と母上と一緒にいたいんぢゃ〜」となってポエムが流れ始める件になると、

    ”『新ジャングルの王者ターちゃん』第11巻141頁"
    『新ジャングルの王者ターちゃん』第11巻 141頁


    な感じで、ライターの意図した情緒刺激が転倒した形で、わたしどもを高揚させる。殊に全く刺激の足りな獣っ娘に至っては、その臨終シークエンスも形而上のはなくそをモニターにぶつけながら鷹揚に眺める始末で、「観鈴ちぃぃぃぃぃぃん」もはるか彼方ですな、はっはっは―――って、えええええええええええええええええええ。

    わたしどもに一体何が起こったのだろうか? (つづく)


     2004/06/29

    重奏する経年効果

    引き続き『SNOW』の感想。

    断末魔をあげる獣っ娘であったが、この程度のオクタン価で転がるわたしどもでもなく、たいへんに片腹痛い。注意散漫なわたしどもは、明日の朝ご飯のことを考え始めざるを得なかった。が、三十秒の後、形而上的に腰を抜かす羽目となった。

    わたしどもの吃驚を説明するには、いささかの言葉数を費やさねばならぬだろう。この吃驚は、燃料投下キャラの本命として造形された捨て子娘との対比において、さらに鮮明になる。すなわち、どうしてこんなシンプルな燃料でこれだけの効果を上げられるのか、という驚きであり、あるいは、これだけの燃料を投下しながら、どうして捨て子娘は観鈴ちん級の威力半径に到達できないのか――という絶望である。

    とりあえず、捨て子娘の臨終する景観は凄まじい。というか、笑ってしまう。川澄綾子のダウナーなヴォーカルと美浜ちよの叫声がコラボレートする地獄絵図である。

    桜花


    わたしどもの「観鈴ちぃぃぃぃぃぃん」という悲鳴の象徴するものは、一種のカルチャーショックではないか。チャンドラセカール限界を越えそうなこれほど大質量の粘質野暮人情情緒混交体は、なかなか他のメディアではお目にかかれない。一言でいえば、やり過ぎだ。ギャルゲーという物語の在り方に抗体のなかった頃のわたしどもは、車椅子から立ち上がって迫り来る観鈴ちんに腰を抜かした。捨て子娘を眺めていると、そのショックが思い出される。ただし、問題なのは、凄まじいことは凄まじいのだが、それが情緒の高揚にあまりつながらないことで、そちらの方がかえってショックだったりする。一体、何が足りないのであろうか。対して、獣っ娘の方には、この燃料でどうしてそこそこの可燃性を発揮できるかについての不思議がある。わたしどもは、まず、獣っ娘の案外な情緒高揚の効用に関して、前回触れた経年効果をベースにして、検討してみよう。


    『SNOW』の物語構造で印象的なのは、経年効果が二重に設定されている点である。娘どもに設置された経年効果については前に述べた。娘どもは、自己の異常な長命によって、一度喪失した莫迦主人公を変わり果てた形で回復する。ここで、主人公男には記憶の継続性がないので、経年効果は娘どもに限定される。ところが、娘どもが主人公男を取り戻すと、物語は反転した『ONE』を語り出す。今度は主人公男が娘どもを原因不明の諸病で喪失せねばならぬお約束モードが発動してしまうのだ。主人公男は、失った娘を取り戻さねばならない。そこに、みさき先輩風の経年効果の生まれる余地が、主人公男側に発生する。獣っ娘が他の娘どもに比して際立つのは、娘の経年効果と主人公男のそれが相乗するその効果においてである。

    主人公男の手短な経年効果をもっとも生かせてないのが、実に無念なことに龍神さま(姉)である。わたしどもにとってもっとも胸に飛び込んで行きたいおねえさんにもかかわらず、たいへん不甲斐ない。いなくなっちゃったよう〜〜とうえ〜んをしている内に、なぜか見つかっちゃう仕様のなさで、経年効果も糞もない。『水月』雪さんのダメな所と同じだ。

    獣っ娘のケースでは、経年効果が無造作に投入される訳ではない。莫迦主人公の経年効果が、彼自身のトラウマ再現/思い出残留を通して発現してしまう。シナリオ工学の効率が極めて高いのだ。やや図式的に語ると、まず獣っ娘の経年効果があり、それに併走して主人公男の経年効果がある。それは十年前にうさちゃんを拾った記憶だ(真琴ちん!)。

    娘の経年効果は全編に渡って厚かましいほど意識的で、当初の内は情緒の刺激に余り貢献はしない。反対に主人公男の経年効果は、娘が失われて、回復する幼少の記憶という形で発動する。両者の経年効果を結びつけるのが、空間の記憶(うさちゃんを取得した場所)とそこで再取得されるうさちゃん、つまり思い出残留の諸効果である。

    孤児娘が観鈴ちんに比して破壊力が抑制される理由について、わたしどもは例えば、

    ○娘の人生の動機に主人公男の動機が見合わない
    (観鈴ちんとおかんの関係を参照)

    ○観鈴ちんが「ヘタレ→アッパー壊滅型」
     孤児娘はどちらかというと「アッパー→ダウナー壊滅型」

    ○観鈴ちんは人生の動機の成就点で壊滅
     孤児娘は成就点投入のタイミングが早い

    と語ることができるが、経年効果に関していえば、孤児娘は悲壮なことに、主人公男と彼女の経年効果を結びつけるアイテムにまるで欠けてしまう。この娘は他の娘に比べて、出発点における主人公男との結びつきがいちばん脆弱で、両者の経年効果を結びつけるべき思い出を作る機会が与えられていなかった。それが、シナリオ工学の効率を低めた結果となったように思う。


     2004/06/30

    不可逆な思い出

    残留すべきなのは思い出であって、事象そのものではない。一度失われた人格は間接的に語られなければならぬ。龍神さま(姉)雪さんに共通するダメダメは、彼女たちがこの命題に違反することから始まっている。わたしどもはらっぶらぶな龍神さま(姉)や雪さんを見失ってしまう。狂乱したわたしどもが彷徨の末に見出すには、自我の継続した龍神さま(姉)や雪さんそのものである。

    わたしどもは同じように、獣っ娘や捨て子娘を見失い、そして時間経過の向こうに彼女たちを発見する。だが、わたしどもの回復する娘どもは、彼女であると同時に彼女そのものではない。また、娘どもの回復する、遠い昔に失われた莫迦主人公は、かつての男であっても、記憶に継続性がない。

    情緒の高揚は事象の不可逆性と関連がある。ゆえに、龍神さま(姉)や雪さんそのものの奪還は、かつての喪失をスポイルしてしまうように思える。事象が可逆的に見えてしまうのだ。

    いちど失われたものは、再現に能わない。再現が可能ならば、喪失に情緒を付加し得ない。物語は不可逆の喪失を語らねばならぬが、それでもわたしどもはらっぶらぶなおねえさんや娘どもを回復したいと願う。けれども、娘そのものが再現されたら、情緒が失われる。したがって、わたしどもはあくまで比喩的な空間に娘どもを見出さねばならない。思い出残留のもたらす情緒とは、詰まる所そういうものである。



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