2005年12月の日記
コントと人情を超えた場所で : (映画)『マルタイの女』
名古屋章が容疑者の高橋和也を落とすとき、彼は高橋のPTSDを利用して自供を勝ち取ってる。
「レ・コスミコミケ」
一
ロバアト・アクセルロッドにとっての女性とは、まず愛がそこに見出され、セクシュアリティに至るか、あるいは逆に、愛のないセクシュアリティがそこにあり、やがて情が移り愛に至るかの二つに一つであった。解せないことに、ロバアトが女性と相対するとき、愛とセクシュアリティは常に分離しがちだった。ロバアトの愛はメンタルなものに止まった。もしくは、彼女の体しか欲さなかった。
ロバアトにはロマンティストの気があり、愛というものを何やらまたとないような、再帰性の無いようなものとして捉える傾向があった。情熱の激しさは、かかる想像上の不動点からいかなる距離に彼女が置かれているのか、その度合いによって決められるべきものとされた。ところが、愛のないセクシュアリティが、何とはなしに誠実さとか温かみといった倫理的なステイタスへ転化して行く様を幾度と無く体験したロバアトは、次第に愛の公準性を疑い始めた。愛は移ろうものであり、儚いものと思われてくるのだった。
二
愛に由来するパッションというものは、微分方程式であり、常に進展中の出来事だ。たとえば、新婚当時のロバアトは、夜な夜な細君に向かって結婚して呉れと言い寄り続け興奮し、彼女を怪訝にさせた。それから十五年を経た今となっては、ロバアトと細君の愛は完全に終わっているのだが、稀に彼がある種のフィーバーに達したとき、その奇妙な現象は今だ再現されることもある。
夫が別の女性を夢想してるのではないかと、細君がいぶかるのも真にもっともなことと思う。しかしながら、ロバアトにとって見れば、かかる合理化の半分は当たってるのだが、半分は正しくない。彼が求婚する対象は、細君でもあり、また別のものでもあるような、詰まるところ、彼にも判別のつかぬ何事かであるように思われるのだ。
三
弁別に能わないと言えば、こういう話もある。
先日、ロバアトは、街頭ですれ違った酔っぱらいに「童女愛好癖者!」と嘲られた気がした。けれども実際のところ、彼にその癖はない。確かに、某SNSのプロフィール欄に『自分は童女愛好癖者ではない』と白々しく記したこともあったが、これはあくまでポオズであって、彼の欲望を逆説的に表現したものではない。少なくとも、ロバアトはそう信じている。ところが、たびたびこの手のポオズを行う内に、ロバアトの中で妙なことが起こって来る。数週間前など、停車場で同僚のテッドと遭遇した際、こんな事を言われた。
「最近の君のブログは病的だぜ。公安に目をつけられたら厄介ぢゃないか?」
ちなみに、このテッドなる男は、三ヶ月後、自室で発狂かつ脱糞して窓から飛び降りることになる。が、今はまだ、少なくとも人と会話が成立するほどには正常に機能している如く思われた。
ロバアトの方に話を戻すと、そのポオズに技巧が加えられて真に迫ってくるほど、自分がまるであたかもペドフィルであるように感ぜられてくる。逆にいえば、彼が心底その傾向を帯びなければ、ポオズは真に迫らなかっただろう。そこで、問題は決定的となる訳だ。これは果たしてポオズなのか、それともポオズがポオズに忠実である余り、何か恐ろしいことが進行しつつあるのではないか?
四
嫌疑の傍証は他にも思い当たる。そもそもかの酔漢は、どうして自分のことをロリ属性と定義したのか。それとも、本当に空耳にすぎなかったのか。
もともとロバアトは、人間の腐臭というもの――路上生活者の、競馬帰りのおやぢたちの、発狂した同僚の、そして朝からビールをジョッキ四杯引っかけ続けた挙げ句にのたれ死んだ養父の香り等々を忌み怖れる男で、酔漢とすれ違ったときも、その類の生暖かい臭気を被りたいそう不快になった。
当時、ロバアトの失調症はクライマックスを迎えつつあり、職場にある三十台ばかりのPCから発せられたクリック音が、まるで工事現場の騒音の如く鳴り響いたものだ。彼は、気の違ったフィーリングの赴くままに、腐臭源の頭に風穴でもあけたら気持ちのよい事この上ないだろうな、と夢想しほくそ笑んだ。しかし他方、あの酔漢が自分の正体をかくもたやすく見破ったのは、この体もまた知らぬ内に腐臭を放出しているからではあるまいかとも空想できるのである。
五
いずれにせよ、ロバアトは自分が何か大きなカタストロフィの滝つぼに落とされた感じを受け、目眩を覚えつつ帰宅し書斎の扉を開いたのだが、ありがちなことに一度始まったミスフォーチュンは連綿として続くものである。まず、息子のスティーヴが板張りの床でうつ伏せになって失禁している様が認められ、その向こうに鎮座する点灯したモニターの中に、盲目の先輩が夕焼けの屋上で佇んでる様が見受けられる。“それ”は何十年も前、厳重に封印したはずなのに、どうしてかかる事態が起こってるのか? 興味本位で書斎に忍び込んだスティーヴの手によって解き放たれた“それ”は、呪わしき父の劣悪な血を引いたこの哀れな息子を父親同様に破壊してしまったのだ。
スティーヴは父の姿を目に留めると、以下のように咆哮している。
「Dad ! 僕はなんてものを見ちまったんだ ! 僕はいったい、どうすればいいんだ !?」
六
150億年くらい前のことだ。とにかくこの頃はたいへんな猛暑で、人一倍汗っかきなロバアトは、むさ苦しいバリオンが向こうから来るや否や、迅速に遁走を重ねたものだ。“彼女”に出会ったのは、そんな逃避行の最中だった。うっかり魔が差したのか、グルーオンの交換などをしてしまったのだから、甚だ遺憾なことになった。
彼女はMS2ファージRNAであり、荷電粒子であり、そして18年前モニターに現れた盲目の先輩だ。反対に彼女にしてみれば、彼は常に夕暮れの屋上へ迷い込んで来る男である。これからこの男と恋をして、そのうち彼を失うことを彼女は知っている。もう何万回も繰り返してきたことだ。
七
ロバアト・アクセルロッドとテッドの間で交わされた最後の会話は、以下のようなものだった。
「なあテッド、君はよく我慢できるな。僕らは一生みさき先輩にさわることができないんだぞ! 彼女の香りを知らないまま死んでしまうんだぞ!」
『智代アフター』をプレイ中だったテッドは、投げやりにこう答える。
「気にするな、すべては神様の思し召しさ!」
『男たちの大和』を観に行ったのだが、上映前の予告で寺尾聡が“八十分しか記憶の保たない病気”に罹患したり(『博士の愛した数式』)、渡辺謙が認知症に罹患したり(『明日の記憶』)と、おやぢ難病ゾーンが広がりまくっていて、本編始まる前から腹一杯になった。
それにしても、寺尾聡は『半落ち』で奥さん認知症+息子白血病だったり、『亡国のイージス』で息子事故死と、最近たいへんなことになっておるな。
その身体は作為であり、あの過去は訪れなかった :
キム・スタンリー・ロビンス 『石の卵』
身体の偽装性にアプローチする物語は、その体の様態に応じて三つのステージに分割できるだろう*1。フェイクであると発覚した娘の身体は、かつて有機物だったはずだ。したがって、1.有機体→2.偽装体→3.最終的な喪失といったように時系列を区分することができ、視角の配置に応じて物語の語る情緒の質感は変わってくる。
『クリスマスに少女は還る』だと、娘の偽装性が発覚するのは、彼女の体が完全に失われてしまった後だ。恐怖映画のフォーマットに類してるためか、追想に伴う情緒喚起と怪談めいたスリラーが接合する。
他方、『消えた少年たち』や『SNOW』にあっては、第二期において、いわばリアルタイムに娘のアレでナニなことが発覚して、かつ、その身体はオーディエンスの目の前で失われる。オーディエンスの情操を大いに刺戟できそうな感じだが、しかし、娘が失われてただ泣きむせぶばかりでも芸がない。この辺は、難病物のプロットとも共通する課題であり、『SNOW』はお話を完結するに当たって、喪失物の回復装置*2を更に投入せねばならなかった。では、ロビンスの『石の卵』は問題をいかにクリアしてるのか? それが今回の話題である。
『石の卵』は第二期発覚型で、我が身の偽装性がそこで発見されてしまう。ところが上述した標準的なプロットと異なり、身体の偽装性は世界の偽装性と併せて語られている*3。自分の体だけではなく、他人の体までもアレなことになっていた訳だ。
このように身体とシンクロして、世界までも作為として語られると、もはや偽装は偽装として認知され得ないかも知れない。彼をして、世界のフォニーを確信させたのは、第一ステージにおける有機体の記憶らしきものである。物語は、第一ステージというものが実際に存在したのか、それともそれこそフェイクだったのか、判断を保留する。重要なのは、特異な記憶によって彼が差別化されてることで、つまりこのプロットは、たびたび触れた『CLANNAD』の風子とそこで遭遇するのである*4。
あの身体も世界もあり得えず、記憶だけ継続していた。このモチーフ下において、『CLANNAD』も『石の卵』もやはり同じような解答にたどり着いている。失われた、あるいはもともと存在しなかったステージを再現すべく、行動のトレスが始まるのだ。
行為の平準化と誠実な愛 : 仲尾ひとみ 『がんばらなくっチャ!Vol.3』
恋愛表現の恒常化が、その真実味を希薄にすることがある。あるいは、その抑制の無さ、恥じらいの無さが、かえって当事者の誠実さに猜疑をもたすことがある。この前提にある価値観は次のようなものになるだろう。情愛の深さは恥じらいをもたらし、感情の露見を抑止するはずだ。したがって、何の恥じらいも伴わなくそれが為されたとなると、その愛は、彼の情熱を本当に喚起するに至ってない。もしくは、その男の感受性が疑われる。
『タナカヒロシのすべて』は、カウリスマキのフォーマットを忠実に踏襲したようで、実は何かが少しずれているようにも思う。たとえば劇伴の使い方。カウリスマキだと、それはマルック・ペルトラのジュークボックスやオーティネンのラジカセから流れてくるもので、つまり、楽曲の流れてしかるべき理由というものが語られる。あるいは、最近のコーエン兄弟のように、むしろ特定の劇伴を流すために物語が語られてしまう。けれども田中誠は、劇伴と鳥肌実をあまりリンクさせず、唐突にカウリスマキっぽいスコアを投入する。
また、オーティネンの旦那は冒頭で職を失い、終幕直前でようやく再就職に成功するのだが、対して鳥肌実は終幕直前でようやく職を失い、数分後に再就職する。彼我の経済体制の違いみたいなものが反映されているのかも。