2005年12月の日記

 2005/12/03

コントと人情を超えた場所で : (映画)『マルタイの女』

名古屋章が容疑者の高橋和也を落とすとき、彼は高橋のPTSDを利用して自供を勝ち取ってる。

『マルタイの女』

高橋は児童虐待の犠牲者で、かつ、この手の被験者にありがちなことに、そのモメントを虐待を行った親ではなく自分の罪科に求めている。そこで、名古屋章一派は、高橋の罪悪感をトラウマ再現*1の文脈に接続する。高橋の息子が、父親のムショ送りと自分との間に因果関係を想定してしまって、そこに罪過を認めるかも知れない。その可能性に言及したのである。高橋はまんまと名古屋の術中にはまり、その場に泣き崩れてしまう。ほとんどアナクロな刑事ドラマの世界である。

ただ、その風景がアナクロだとしても、あるいは余りにもアナクロだからこそ、今日のオーディエンスが受ける印象はいささか複合的になってくる。『マルタイの女』がそもそもコントのフォーマットに則したお話であることを思い起こしてもよい。つまり、名古屋章と高橋和也の優れて類型的な人情芝居を、果たして本気印と受け取るべきなのか、コントとして受け取るべきなのか、見当がつかなくなり混乱してしまうのだ。

この、意図したものなのかどうなのか取り敢えず不明なコントには、ある意味で、ウディ・アレンっぽい感覚がある。後日議論することになるが、『世界中がアイ・ラヴ・ユー』('96)のジュリア・ロバーツを想起したい。彼女の分析医から情報が流出したおかげで、ジュリアは背中が弱いことをウディが知る。そこで背後をこっそり刺戟してみると、彼女はまたたく間にウディに辛抱たまらなくなる。有機的な身体が、特定のインプットに対して予期されたアウトプットをそのまま出してしまうおかしさみたいなものがあり、いわば心理学への揶揄という形で、コントが語られている。

『マルタイ』に話を戻すと、今時 (?) な犯罪者に遭遇した名古屋章たちも、取り調べに当たって、そっち関係の参考書をあさる羽目になっており、六平直政などは中年になっても受験勉強の真似事をせねばならない不幸を嘆いたりする。しかし、おやぢどもの労苦は報われ、名古屋のこれ見よがしな、それこそコント然とした人情の罠に、高橋は面白いくらい簡単に引っかかってしまう。ただし、だからといってこれが純然たるコントとして評価してもよいかというと、ちょっと留保しておきたくなる点もある。一見して狡猾な名古屋は、反面、高橋のPTSD話に本気で同情して落涙までしており、したがって、コントと本気印の錯綜は、人格の二面性らしきものに立脚しているとも考えられる。

おそらく作中で、かかる二面性をもっとも具現しているのが、村田雄浩になるだろう。『マルタイ』には、西村雅彦を初めとする本気印のおやぢどもが、お気楽な宮本信子に翻弄される、または逆に、宮本がおやぢどもの本気印をキモがるといった価値観の対立図式がある。けれども、レジーム側のおやぢどもにあって、村田だけが宮本を相対化できる乾いた視点をもっていて、彼女に話題を合わせることができる。しかし一方で、彼はたわいもない宮本の舞台に、名古屋や西村以上に感涙したり、逮捕術の観戦に狂って宮本をドン引きにさせたりもする。彼はどうして、表裏する人格を以て造形されねばならなかったのか。それは彼が、西村の代表するスキームに宮本を統合するための架け橋として機能しているからだろう。


ここで、名古屋が高橋を落としたシークエンスを再び思い返そう。面会場所に入った高橋は、その空間に違和感を表明する。彼は鉄格子越しだと思っていたのだが、実際につれてこられた場所は、所轄の署長室らしきところである。つまり、鉄格子でもなければ、完全な娑婆でもない曖昧な領域だ。名古屋がそんな部屋をセッティングせねばならなかったのは、西村と宮本がそうであったように、彼らも異なるスキームによって分割されていて、今、両者をつなぐ必要に迫られてるからである。だから、彼らの依拠する空間は両義的な性格を帯びざるを得ないはずだ。

そこにあって、コントか本気かの選択はすでに棄却さているか、または、問題がそんな評価軸を超えていると言えるだろう。死を目前にして伊丹十三のたどり着いた地平である。


 2005/12/10

「レ・コスミコミケ」



ロバアト・アクセルロッドにとっての女性とは、まず愛がそこに見出され、セクシュアリティに至るか、あるいは逆に、愛のないセクシュアリティがそこにあり、やがて情が移り愛に至るかの二つに一つであった。解せないことに、ロバアトが女性と相対するとき、愛とセクシュアリティは常に分離しがちだった。ロバアトの愛はメンタルなものに止まった。もしくは、彼女の体しか欲さなかった。

ロバアトにはロマンティストの気があり、愛というものを何やらまたとないような、再帰性の無いようなものとして捉える傾向があった。情熱の激しさは、かかる想像上の不動点からいかなる距離に彼女が置かれているのか、その度合いによって決められるべきものとされた。ところが、愛のないセクシュアリティが、何とはなしに誠実さとか温かみといった倫理的なステイタスへ転化して行く様を幾度と無く体験したロバアトは、次第に愛の公準性を疑い始めた。愛は移ろうものであり、儚いものと思われてくるのだった。



愛に由来するパッションというものは、微分方程式であり、常に進展中の出来事だ。たとえば、新婚当時のロバアトは、夜な夜な細君に向かって結婚して呉れと言い寄り続け興奮し、彼女を怪訝にさせた。それから十五年を経た今となっては、ロバアトと細君の愛は完全に終わっているのだが、稀に彼がある種のフィーバーに達したとき、その奇妙な現象は今だ再現されることもある。

夫が別の女性を夢想してるのではないかと、細君がいぶかるのも真にもっともなことと思う。しかしながら、ロバアトにとって見れば、かかる合理化の半分は当たってるのだが、半分は正しくない。彼が求婚する対象は、細君でもあり、また別のものでもあるような、詰まるところ、彼にも判別のつかぬ何事かであるように思われるのだ。



弁別に能わないと言えば、こういう話もある。

先日、ロバアトは、街頭ですれ違った酔っぱらいに「童女愛好癖者!」と嘲られた気がした。けれども実際のところ、彼にその癖はない。確かに、某SNSのプロフィール欄に『自分は童女愛好癖者ではない』と白々しく記したこともあったが、これはあくまでポオズであって、彼の欲望を逆説的に表現したものではない。少なくとも、ロバアトはそう信じている。ところが、たびたびこの手のポオズを行う内に、ロバアトの中で妙なことが起こって来る。数週間前など、停車場で同僚のテッドと遭遇した際、こんな事を言われた。

「最近の君のブログは病的だぜ。公安に目をつけられたら厄介ぢゃないか?」

ちなみに、このテッドなる男は、三ヶ月後、自室で発狂かつ脱糞して窓から飛び降りることになる。が、今はまだ、少なくとも人と会話が成立するほどには正常に機能している如く思われた。

ロバアトの方に話を戻すと、そのポオズに技巧が加えられて真に迫ってくるほど、自分がまるであたかもペドフィルであるように感ぜられてくる。逆にいえば、彼が心底その傾向を帯びなければ、ポオズは真に迫らなかっただろう。そこで、問題は決定的となる訳だ。これは果たしてポオズなのか、それともポオズがポオズに忠実である余り、何か恐ろしいことが進行しつつあるのではないか?



嫌疑の傍証は他にも思い当たる。そもそもかの酔漢は、どうして自分のことをロリ属性と定義したのか。それとも、本当に空耳にすぎなかったのか。

もともとロバアトは、人間の腐臭というもの――路上生活者の、競馬帰りのおやぢたちの、発狂した同僚の、そして朝からビールをジョッキ四杯引っかけ続けた挙げ句にのたれ死んだ養父の香り等々を忌み怖れる男で、酔漢とすれ違ったときも、その類の生暖かい臭気を被りたいそう不快になった。

当時、ロバアトの失調症はクライマックスを迎えつつあり、職場にある三十台ばかりのPCから発せられたクリック音が、まるで工事現場の騒音の如く鳴り響いたものだ。彼は、気の違ったフィーリングの赴くままに、腐臭源の頭に風穴でもあけたら気持ちのよい事この上ないだろうな、と夢想しほくそ笑んだ。しかし他方、あの酔漢が自分の正体をかくもたやすく見破ったのは、この体もまた知らぬ内に腐臭を放出しているからではあるまいかとも空想できるのである。



いずれにせよ、ロバアトは自分が何か大きなカタストロフィの滝つぼに落とされた感じを受け、目眩を覚えつつ帰宅し書斎の扉を開いたのだが、ありがちなことに一度始まったミスフォーチュンは連綿として続くものである。まず、息子のスティーヴが板張りの床でうつ伏せになって失禁している様が認められ、その向こうに鎮座する点灯したモニターの中に、盲目の先輩が夕焼けの屋上で佇んでる様が見受けられる。“それ”は何十年も前、厳重に封印したはずなのに、どうしてかかる事態が起こってるのか? 興味本位で書斎に忍び込んだスティーヴの手によって解き放たれた“それ”は、呪わしき父の劣悪な血を引いたこの哀れな息子を父親同様に破壊してしまったのだ。

スティーヴは父の姿を目に留めると、以下のように咆哮している。

「Dad ! 僕はなんてものを見ちまったんだ ! 僕はいったい、どうすればいいんだ !?」



150億年くらい前のことだ。とにかくこの頃はたいへんな猛暑で、人一倍汗っかきなロバアトは、むさ苦しいバリオンが向こうから来るや否や、迅速に遁走を重ねたものだ。“彼女”に出会ったのは、そんな逃避行の最中だった。うっかり魔が差したのか、グルーオンの交換などをしてしまったのだから、甚だ遺憾なことになった。

彼女はMS2ファージRNAであり、荷電粒子であり、そして18年前モニターに現れた盲目の先輩だ。反対に彼女にしてみれば、彼は常に夕暮れの屋上へ迷い込んで来る男である。これからこの男と恋をして、そのうち彼を失うことを彼女は知っている。もう何万回も繰り返してきたことだ。



ロバアト・アクセルロッドとテッドの間で交わされた最後の会話は、以下のようなものだった。

「なあテッド、君はよく我慢できるな。僕らは一生みさき先輩にさわることができないんだぞ! 彼女の香りを知らないまま死んでしまうんだぞ!」

『智代アフター』をプレイ中だったテッドは、投げやりにこう答える。

「気にするな、すべては神様の思し召しさ!」


 2005/12/19

『男たちの大和』を観に行ったのだが、上映前の予告で寺尾聡が“八十分しか記憶の保たない病気”に罹患したり(『博士の愛した数式』)、渡辺謙が認知症に罹患したり(『明日の記憶』)と、おやぢ難病ゾーンが広がりまくっていて、本編始まる前から腹一杯になった。

それにしても、寺尾聡は『半落ち』で奥さん認知症+息子白血病だったり、『亡国のイージス』で息子事故死と、最近たいへんなことになっておるな。

 2005/12/20

その身体は作為であり、あの過去は訪れなかった :
キム・スタンリー・ロビンス 『石の卵』

身体の偽装性にアプローチする物語は、その体の様態に応じて三つのステージに分割できるだろう*1。フェイクであると発覚した娘の身体は、かつて有機物だったはずだ。したがって、1.有機体→2.偽装体→3.最終的な喪失といったように時系列を区分することができ、視角の配置に応じて物語の語る情緒の質感は変わってくる。

『クリスマスに少女は還る』だと、娘の偽装性が発覚するのは、彼女の体が完全に失われてしまった後だ。恐怖映画のフォーマットに類してるためか、追想に伴う情緒喚起と怪談めいたスリラーが接合する。

他方、『消えた少年たち』や『SNOW』にあっては、第二期において、いわばリアルタイムに娘のアレでナニなことが発覚して、かつ、その身体はオーディエンスの目の前で失われる。オーディエンスの情操を大いに刺戟できそうな感じだが、しかし、娘が失われてただ泣きむせぶばかりでも芸がない。この辺は、難病物のプロットとも共通する課題であり、『SNOW』はお話を完結するに当たって、喪失物の回復装置*2を更に投入せねばならなかった。では、ロビンスの『石の卵』は問題をいかにクリアしてるのか? それが今回の話題である。


『石の卵』は第二期発覚型で、我が身の偽装性がそこで発見されてしまう。ところが上述した標準的なプロットと異なり、身体の偽装性は世界の偽装性と併せて語られている*3。自分の体だけではなく、他人の体までもアレなことになっていた訳だ。

このように身体とシンクロして、世界までも作為として語られると、もはや偽装は偽装として認知され得ないかも知れない。彼をして、世界のフォニーを確信させたのは、第一ステージにおける有機体の記憶らしきものである。物語は、第一ステージというものが実際に存在したのか、それともそれこそフェイクだったのか、判断を保留する。重要なのは、特異な記憶によって彼が差別化されてることで、つまりこのプロットは、たびたび触れた『CLANNAD』の風子とそこで遭遇するのである*4


あの身体も世界もあり得えず、記憶だけ継続していた。このモチーフ下において、『CLANNAD』も『石の卵』もやはり同じような解答にたどり着いている。失われた、あるいはもともと存在しなかったステージを再現すべく、行動のトレスが始まるのだ。


*1:「ハイリスクな娘」を参照。

*2:「不可逆なおもいで」を参照。

*3:身体と世界の同時多発偽装性については、フレデリック・ポール『幻影の街』を想起せよ。「ずれる自己同一性(後編)」を参照。

*4:「記憶を乗り越えた少女の物語(2)」を参照。


 2005/12/27

行為の平準化と誠実な愛 : 仲尾ひとみ 『がんばらなくっチャ!Vol.3』

恋愛表現の恒常化が、その真実味を希薄にすることがある。あるいは、その抑制の無さ、恥じらいの無さが、かえって当事者の誠実さに猜疑をもたすことがある。この前提にある価値観は次のようなものになるだろう。情愛の深さは恥じらいをもたらし、感情の露見を抑止するはずだ。したがって、何の恥じらいも伴わなくそれが為されたとなると、その愛は、彼の情熱を本当に喚起するに至ってない。もしくは、その男の感受性が疑われる。

『がんばらなくっチャ!Vol.3』21頁
仲尾 [2004:21]

信憑性ある情熱が求愛行動を妨げるとき、そこにちょっとしたパラドックスを見ることができる。かかる相において、恋愛は恋愛に至らない場所でないと成立していない。ところが、結果だけを見ると、抑制のきかない感情の露出もまた、その誠意が疑われるゆえに、同じように恋愛を成り立たせない。したがってそこで、誠意の欠落により実現を見ない恋愛が、愛の困難の実証する情愛の信憑性と奇妙な交叉をすることとなる。あの愛は露悪的であるがために、愛となり得なかった。ところがかかる愛の困難に、かえって愛の実効性を明らかにする契機がある。

ここで冒頭のフレーズに戻るのだが、好んで露見が続けられる熱狂に、行動の平準化を見て取ってもよいだろう。たとえば、懸想の対象を視界に入れるたびに、彼は昂奮のあまり、hug を敢行すべく突進するしかない。けっきょく、その単一性が情緒の騒音をかき消すホワイトノイズとなってしまった。しかしまた一方で、かかる平準化は、やがて来るべき信憑性ある激高*1をすでに包摂しているとも考えられる。たわいもない好意の連続が、それとは明らかに区別される感情の突出を、むしろ強調するように思われるのである。

『がんばらなくっチャ!Vol.3』103頁
[ibid:103]


恋愛を阻害するかのように見えた物語要素は、実の所そこに至る前段階として機能しており、物語は恋愛の発達史を語っていた。『がんばらなくっチャ!』にあっては、この感情の過程みたいなものが更に拡張されて行く様も見受けられる。既出の平坦な感情露出とは区別される、クレイズドされたチャームとゆんのパッションによって、恋愛はいったん自己完結して静止し、語られる対象としては魅力が乏しくなってしまい、このままだと再び恋愛のパラドックスに至りかねない。そこで今度は、かかる二人の完結した関係自体が、第三者の情緒を扇動する装置として働き始める*2

160頁を見てみよう。道端でチャームとゆんが hug やってる。この情景は、チャームに辛抱堪らなくなってるつかさに目撃され、彼女(中身は男であるが)を情緒不安に導く。加えて、つかさもまた、彼女に辛抱堪らなくなっているマナに眺められており、彼女を不審がらせている。一つの系が、安定を求めて外部へ拡張して行く様がよくわかる。

『がんばらなくっチャ!Vol.3』160頁

『がんばらなくっチャ!Vol.3』161頁
[ibid:160-161]


他方、リープとミツムラヨシヒロの系を眺めると、パラドックスに別の側面が見えてくる。たとえばミツムラには、リープの脚部に油性マジックで自分の名前を記す癖がある。

『がんばらなくっチャ!Vol.3』146頁
[ibid:146]

オーディエンスから見れば、あからさまな表現ではある。けれども当人にあっては、愛情と虐待の判別がついていない。そして弁別がないために隠匿する必要に欠け、ミツムラの中にツンデレで見られるような錯乱を見ることはできない。あるいはより自覚的に、虐待というほんらい愛に至らないものが、愛情表現として採用されている気配もある。



*1:彼我の人格的優位が逆転したとも言ってよい。「ヘタレ動態(キーワード)」を参照。

*2:類似する感覚については「逆媒介項」も参照。


仲尾ひとみ 2004 『がんばらなくっチャ!Vol.3』 スクウェア・エニックス

 2005/12/29

『タナカヒロシのすべて』は、カウリスマキのフォーマットを忠実に踏襲したようで、実は何かが少しずれているようにも思う。たとえば劇伴の使い方。カウリスマキだと、それはマルック・ペルトラのジュークボックスやオーティネンのラジカセから流れてくるもので、つまり、楽曲の流れてしかるべき理由というものが語られる。あるいは、最近のコーエン兄弟のように、むしろ特定の劇伴を流すために物語が語られてしまう。けれども田中誠は、劇伴と鳥肌実をあまりリンクさせず、唐突にカウリスマキっぽいスコアを投入する。

また、オーティネンの旦那は冒頭で職を失い、終幕直前でようやく再就職に成功するのだが、対して鳥肌実は終幕直前でようやく職を失い、数分後に再就職する。彼我の経済体制の違いみたいなものが反映されているのかも。


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