(p01)「日本超古代史研究」梗概
BC二万年期、沖縄には「ムイ文明」と呼ばれる世 界最古の文明が栄えていた。しかし、その文明は氷
河期の終わりとともに、温暖化による海進現象によ り海中に没した。
生き残った末裔達は大陸に渡り、新たな国家建設 に取りかかったが、大陸には既に彼らが作り上げた
植民地国家群が存在していた。それらの国家もまた 海進による被害を受けていたので、避難民達による
新国家との間に深刻な利害対立が生じた。 新国家群は植民地国家に対抗するため連合し、盟
主にスメラミコトが選ばれた。 ムイ文明圏はユーラシア大陸広く分布していたが、
後氷期以降、文明の中心は次第に西方に移った。 ムイ文明の末裔達はメソポタミア・インドとユーラシア
大陸を彷徨った後、中国南部に安住の地を得たが、 BC千七百年北部に殷王朝が成立すると、その圧力
から逃れるため朝鮮半島南部の「高天原」に移動し た。 BC二百二年中国で漢帝国が成立すると、半島へ
の脅威を感じた高天原王朝は、当時超古代王朝が 滅亡して分裂状態だった日本列島の征服を決意し、
イザナギ、イザナミの二将軍を送った。イザナミは戦 死したが、イザナギは淡路島を占領し、日本本土へ
の橋頭堡を築くことに成功した。 数十年後、アシハラノシコオは山陰地方の小国家
群を連合させ、高天原王朝と抗争したが敗北し、西 部日本海沿岸地域は高天原王朝の支配下に入った
。 BC一世紀、宮崎で挙兵したイワレヒコ大王は大軍 を率いて、近畿を支配するアラハバキ王国のナガス
ネヒコ王と決戦し勝利した。都を大和の地に移し、そ こから西中部日本の覇を唱えた。
AD二百二十年、漢帝国が滅亡すると、朝鮮半島 では人民による独立運動が活発になり、征服王朝で
ある高天原王朝は各地で勃発する反乱を押さえられ ず窮地に立たされた。また北方から勢力を延ばして
きた高句麗も脅威であった。政治・経済の中心も高 天原から大和に移り、軍事経費がかかる朝鮮半島
経営は大和朝廷の経済を圧迫した。 AD二百三十九年、朝鮮半島西岸と九州西部に勢
力のあったクメール人国家のクマ国に対抗するため 、イニエ皇は三国の中で最強国であった魏に接近す
る政策を取った。高句麗と敵対していた魏は大和朝 廷の軍事力に注目し、朝貢を認める決定を下し、使
節団を日本に派遣した。イニエは魏の使節団を九州 の高千穂宮殿に招待し、大伯母のトトソ姫に接見さ
せた。 AD三百十八年、イニエの曾孫オウスは、父の命を 受け、関東地方に残るアラハバキ勢力の掃討に向
かった。熱田の地でミヤズ姫と恋に落ち、愛の証とし て神剣の草薙の剣を預けた。途中各地で地元民の
ゲリラに遭い難儀したが、一応目的を達して熱田の 地に戻った。
ミヤズ姫の父親から息吹山のゲリラ退治を依頼され 、気安く同意したが、ゲリラの毒ガス攻撃によって命
を落とした。 オウスの息子ナカツヒコは皇位に就いたが、父親を
尊敬するあまり各地で領土拡張戦を行ない国力を疲 弊させた。皇后のオキナガは大臣の建内宿禰と結
託しナカツヒコを毒殺し、建内との間に生まれたホン ダを皇位に就けた。
ホンダの治世は平穏だったのでオキナガはわが子 のために広大な墳墓を建設した。オキナガ大后と建
内はその後も関係を続けサザキを生んだ。サザキは ホンダの養子になった。
サザキは皇位に就くと、ホンダよりも大きな墳墓の建 設に着手した。このような無意味な陵墓建設など失
政が続き膨大な負債を抱えた大和朝廷は、赤字続 きのの朝鮮半島経営に行き詰まり、半島南岸部に
残されていた領土を百済に譲渡する決定をした。 以後大和朝廷は日本列島内の基盤強化に専念し
、東北地方の領有に成功する。 AD四百六十二年、兄弟を殺害して皇位に就いた
ワカタケルは、自己の保身のために一族の男系をほ とんど根絶やしにした。その後、彼は子作りに励ん
だが、長命な子孫に恵まれず、皇統が絶えた。朝臣 達はやむを得ず、オロチ族出身で高志(コシ)国の王
子であったオホドを婿養子に迎え皇位に就けた。 それ以降も皇族間の権力争いによって国政に乱れ
が生じた間に、畿内の豪族達は地力を付け、それは 蘇我と物部という両雄の対立を招いた。知略によっ
て物部氏を屠った蘇我氏一族は、皇室の外戚となり 、権力をほしいままにした。
厩戸は蘇我氏の後ろ盾により天皇になった。中国 では久しぶりの統一王朝の隋が勢力を伸ばしていた
。大和朝廷としても隋と友好関係を樹立する必要性 を感じ、厩戸は外交特使として小野妹子を派遣した
。しかし、親書の文面に不備があり、隋政府の心象 を害する事態を招いた。隋はちょうど高句麗と外交
上の問題を抱えており、その絡みで大和朝廷と不必 要に関係悪化を恐れていた。そのために外交問題
になることは免れたが、国内での厩戸の信用は失墜 し、退位する事態になった。
引退後、厩戸は古代の伝承を記録する稗田氏と接 触し、古事記の編纂に取り組む。志半ばで厩戸は病
死した。 蘇我氏に恨みを持つ葛城はクーデターを起こし蘇 我氏を屠ることに成功した。彼は行きがかりで、滅亡
した百済を救済するために大軍を朝鮮半島に派遣し たが、新羅と唐の連合軍の前に壊滅的な敗北を喫
した。日本海の制海権を失った日本は、本土防衛の ために汲々とせざるを得なくなった。
葛城の死後クーデターにより政権を奪取した大海 は、行政改革に乗り出し、唐の制度を大幅に取り入
れ、唐との関係修復を図った。彼は国史の編纂を命 じたが作業の遅れにいらだち、稗田氏に古事記の
提出を要請した。 大海皇の遺志を受け継いだ藤原不比等は、古事記
を改竄して唐側に受け入れられる資料にするために 、その作業を太安麻呂に命じた。苦心の末完成させ
た安麻呂は不比等に提出し了承された。彼は更に 内容を知りたがっている豪族のために万葉仮名交じ
り文による普及版を作成し、多くの人に喜ばれた。 |