(p18)第四章 高天原 2
さらには南下政策をとって薩摩の隼人族を圧迫し た。 対馬を狙っていた於茂登王朝は隅国に対して対馬
の引き渡しを要求したが、拒絶されたので両国の国 交は断絶した。
隼人族はBC二千年期には日本列島に到達してい た。 彼らはもともと国家の意識が希薄で、部族ごとに
集落を作り漁労を中心とする半定住の生活していた が、北方から隅族が侵攻してきたのでやむなく団結
して隼人国を作った。 軍事的に弱体だったが於茂登王朝に朝貢し援助
を受けることによって隅国に対抗していた。 北部九州及び中国地方それに四国の一部には弥
生系の民族が住んでおり、大小合わせて数十の部 族国家を形成していた。
彼らは、古くは戦国時代呉越の戦いで破れた呉の 移民に始まり、秦の中国統一時に逃れてきた斉・楚
の移民、漢成立時に逃れてきた秦の移民や、新しく は漢による朝鮮占領によって逃れてきた朝鮮系の移
民達だった。 北部九州は福岡平野を斉の移民が建設した委奴( イト)国、中津平野を呉の移民が建設した豊国が支
配していた。 委奴国の国王磐井氏は常世国から「倭王」の称号
を授けられ、漢帝国や山戸王朝との交易を任されて いた。 常世国滅亡後も交易活動を盛んに行い大いに利
益を得ていた。王都の那津は九州地上最大の都市 として栄えた。
一方農民の難民が主体だった豊国は、稲作に力を そそぎ国力を伸ばした。
中津平野に定住した豊族はこの地の開墾に成功 し、周辺の諸部族を臣従させた。
宇佐に王都を定め、さらに大分平野の開墾にも乗 りだし、安定した食料供給力を獲得した。
四国の東端と淡路島、それに房総半島の南端部に は阿波族が住み着いていた。
彼らの祖先はセム族系ヘブライ人だったが、祖国 のイスラエル王国はBC七百二十一年にアッシリア
のサルゴン二世によって滅ぼされた。 流民となったヘブライ人達は東方にあったアスカ人
系のエラム王国を頼って逃れたが、その地もBC六 百三十年にアッシリアによって首都のスーサが破壊
され多くのヘブライ人は虐殺された。 生き残ったヘブライ人はエラム人と共にインドに逃
れた。 彼らはコーサラ国の王都アヨーディヤーに居住を許 され商業活動をした。
BC四百八十六年にコーサラ国がマガダ国に滅ぼ されると、マガダ国の支配を嫌った一部はさらに東
方の中国に移住した。 当時の中国は戦国時代だったが、ヘブライ人達は
シルクロード交易で縁の深かった北部の諸王朝に帰 属した。 その中で、秦は当時まだ辺境の弱体国家だった。
遊牧民族や他国の圧迫苦しんだ秦王は国力増強 の方策を求めて苦悶していたので、西方の技術と文
化を所持していたヘブライ人達を厚遇した。 パリサイ派の律法学者の家柄だったシオン氏は「
商」氏と称した。 BC三百五十九年に衛国から移住した商鞅(ショウ
オウ)が秦国の宰相になると、彼は従来の中国式の 法令を廃し中東風の法令に改める政治改革を行っ
た。 これにより中央集権化が実現した秦は実力をつけ 、ついに戦国諸国中最強国になった。
BC二百七年に劉邦によって秦帝国が滅亡すると 、冷酷な法家主義を推進した商一族は民衆の恨み
を買い、各地で虐殺された。 秦帝国のもとで甘い汁を吸っていたヘブライ人達
の子孫も同類とみなされ迫害されたので彼らは朝鮮 半島に逃げ出した。
箕子朝鮮は一時彼らを保護したが、漢帝国の追求 が及んでくると彼らは再び南下した。
しかし、南端には山戸王朝が存在し彼らの受け入 れを拒絶したので、やむなく海路済州島に渡った。
BC二百二年に済州島のワニ族を征服して、その 地でパレスティナを意味する秦(パタ)氏を名乗った。
BC百八十六年に、彼らは奄美大島を攻略し一時 占拠したが、於茂登王朝の反撃を受けて撤退した。
しかし、黒潮の流れを把握した彼らは日本列島に植 民活動を開始し、四国や房総半島の先端部などに
集落を作った。 BC百五十年に常世国が滅亡すると、彼らは混乱
に乗じて淡路島を占拠し、洲本に本拠地を移した。 BC百三十六年には徳島平野を制圧し阿波国を作っ
た。 北陸から山陰にかけてはオロチ族という沿海州か らの渡来民族が占拠し、高志(コシ)国を形成してい
た。 東南アジア系の民族の国である越国は、戦国時代 呉越の戦いに勝利したものの、BC三百三十四年に
楚の圧迫を受け滅亡した。 その遺民の一部は対馬海流に乗って佐渡島に到
着し、常世国の庇護を求めた。常世国は彼らに国中 平野への定住を許した。
BC二百四十年、ツングース系の北方遊牧民族で あるオロチ族も匈奴の圧迫を受け新天地を求めて日
本列島をめざし渡海してきた。彼らの一団はリマン海 流に乗って佐渡島に上陸した。
当時まだ弱体だったオロチ族の族長はそこにいた 越からの避難民の部族と接触し、越の族長の娘と
結婚することによって越族の助力を頼った。 佐渡島は常世国衰退のあおりで支配関係が混乱
し、土着の縄文系部族が勢力抗争を繰り広げていた ので、それらの動きに対抗するために越族も軍事的
増強を必要としていた。騎馬民族であるオロチ族と 組むことは戦局を打開する有力な方策と考えられた
。 オロチ族は当初徹底的に下手に出て越の族長を 宗主と仰ぎ、越族の先兵となって周辺の縄文人の部
族を攻略していった。 オロチ族は騎馬戦を得意とし、平野部での戦いは
圧倒的な強さを誇った。 その分海軍力には見劣りがした。オロチ族は越族
から航海技術を拾得すると、一転して高圧的な態度 を取るようになり越族を圧迫した。
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