(p02)序章 前史1
今から一万年ほど前、最後の氷河期が終わり、急激 な気温上昇のために世界各地で大洪水が発生し、
平野部に存在した文明を壊滅させた。 このとき滅びた文明の中に「アスカ文明」と呼ばれ
るものがあった。 この古代文明を形成した民族は、北方のシベリア
大陸を起源とするモンゴロイドだった。その民族をア スカ人と言った。
モンゴロイドは二系統に大別される。 アスカ人はその内の原モンゴロイドと呼ばれている
系統に属し、今日のシベリア北部にいる諸民族と同 じ系統だった。
特徴としては比較的顔の彫りが深く、毛深い。 血液型はO型が多く、ずんぐりした体型をしていた
。 BC二万年期、アスカ人の一部は気候の寒冷化に 伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に
到達した。 中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文 化に代表される後期旧石器時代の文化を有してい
たが、BC一万九千年期になると、細石器文化に至 り、中石器時代を迎えた。
この頃になると、西方の民族との接触により遊牧 の技術を獲得し、食生活も安定してきた。
この当時、極地に存在した巨大な氷層のために海 面は現在よりも百二十メートルほど低く、そのため東
シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊だった。( この大陸を仮に「東シナ海大陸」と呼ぶことにする)
BC一万八千年期になると、その内の東方の沿岸 部にいた部族は、対岸の琉球諸島に移住した。
その部族をムイ族と言った。 奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現
在よりも三倍から十倍の面積を持つ大島だった。 さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在した。
沖縄地方の総面積は現在は奄美諸島を含めて三千 二百平方キロメートル程度であるが、当時は合計す
ると一万八千平方キロメートルあった。 原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ
人が急速に文明化した最大の要因は、稲を発見し その栽培法を確立したことによった。
現在水没している東シナ海大陸棚には、当時至る ところに湿原があり、そこにはジャポニカ種の稲が自
生していた。 稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成を
もたらした。 東シナ海大陸は土地も広大で人口も多かった。し
かし、水利をめぐる同族間の争い、北方異民族や山 岳部族の侵入、当時多数生息していた虎や狼など
の猛獣による被害などのために、彼らが文明を築く ゆとりは生じなかった。
ムイ族は上記の内のいずれかの事情で定住をあ きらめ、対岸の琉球諸島に移住したのだった。
BC一万六千年期、琉球諸島に移住したムイ族は その地で文字を発明し、アスカ文明に先行する世界
最古の文明「ムイ文明」を確立した。 ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能だった
のは、琉球諸島が地理的条件に恵まれていたせい である。 更新世における東シナ海大陸沿岸地方は、現在よ
りも平均気温が四度C程低く、湿度も相対的に低か った。 琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気
候も温暖で、台風の襲来に悩まされることもあった が、そのおかげで水不足に陥ることは少なかった。
ムイ族が沖縄に渡ったのとほぼ同時期に朝鮮半 島経由で日本列島に渡った部族もあった。その部族
をスイジン族と言った。 この当時朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは地
続きだった。 朝鮮半島と日本列島の間には現在よりも数倍も大
きい対馬があり、西水道と東水道が存在したが、西 水道は十数キロ、東水道にいたっては僅か数キロし
かない狭い海峡だった。壱岐は本州の一部だった。 当時の日本列島は、北部や中部の山間部は寒冷
な気候だったが、南部の沿岸地方は比較的温暖な 気候だった。 当時の日本周辺の地形は、樺太が沿海州と地続
きで、樺太から北海道・国後島までが大陸の一部で あり、冬季には氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐
渡島、四国、九州、屋久島、種子島までがサーベル 状の巨島として存在していた。
その島はスイジン島と呼ばれた。 スイジン島に渡ったスイジン族は稲作の最適地を
求めて南下北上を続けた。 スイジン族が侵入する以前のスイジン島の南方沿
岸部にはメラネシア系の海洋民族やネグリト族が定 住していた。
彼らは漁労とタロイモ、ヤムイモ栽培等の原始的な 農耕を行っていた。スイジン族の侵入が開始される
と、先住民族は山間部に追いやられていった。 文化的にも軍事的にもスイジン族の方が優勢だっ
た。 当時のスイジン島は現在の屋久島沖が最南端だ ったが、そこから更に二十キロ離れたトカラ列島に渡
る部族も現れた。 トカラ列島の南端から奄美諸島までは四十キロあ
ったが、中間地点に停泊可能な岩礁があった。 奄美諸島から琉球諸島までは連綿と島が続いて
いた。 琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原 始的な漁労採集を営んでいただけで、ハブ以外に猛
獣の類もおらず、そこに移住したムイ族は稲作が普 及すると、すぐに生活のゆとりを生じた。
特に現在水没している宮古島北東沖にあった陸塊 は、全島が平坦で、過去の間氷期に水没を経験して
いるのでハブもおらず、大いに栄えた。 その島はニライ島と呼ばれていた。面積は三千平
方キロメートルほどだった。 この島を中心にBC一万六千年期には農耕を基盤
とする古代ムイ文明が形成されたのである。 |