(p09)第二章 統御子2

 BC四二百千年期に入ると地球は最後の海進期に 入り、地中海地域の環境は著しく劣悪化した。
メソポタミアの土地も乾燥化が急激に進み、森林地 帯が全滅に近い被害を受けた。
 森林は高木結族にとって太陽と並ぶ神聖な存在だ った。
 高木の神は巨木に宿るからである。
ニップール周辺から森林が去ったとき、高木結族は 遷都を決意した。
新都に選ばれたのは、まだ大森林地帯が続いてい たアナトリア高原だった。この高原は当時豊雲野(チ ュルクモン)と呼ばれていた。
 新都は中央部のチャタルヒュイックに建設され、山 戸(ヤマト)と名付けられた。この場所は高地であり、 高原全体が針葉樹林で覆われ、雨がよく降り曇天の 日が多かった。
 そばには大河キジルイルマク川が流れていた。
 この川は黒海に向かって流れていたが、河口のサ ムスン周辺の地は唯一地中海沿岸でスメル人が支 配している地だった。

BC四千百八十八年、統御子は新都に入城し、中央 集権的な政治を行った。この国はニップール国と称 した。
 そして、ニップール国の住民を天孫族と称するよう になった。
 旧都のニップールには代官を配置した。代官は品 主(シン)と呼ばれた。
 代官はエリドにも置かれた。そこの代官は魚入家( エヤ)と呼ばれた。
新都が完成してまもなく、各地でスメル人と地中海 人との抗争が深刻化した。
 小氷期による耕地不足から、沿岸部を中心とする 地中海人による領土侵犯が頻発したのと、黒海河 口に橋頭堡を築いたスメル人が対岸のクリミア半島 を制圧する動きを見せたことが原因だった。
地中海人はスメル人同様多くの都市国家を形成した が、スメル人と違って、平時に同族間で連合すること を極端に嫌った。
 それどころか、同族の都市国家同士であってもい さかいが絶えない有り様だった。
スメル側は地中海人の都市国家を個別撃破すること も可能だったが、地中海人に対してエジプト人はい まだに宗主顔をしていた。もし、スメル人が本格的に 地中海人掃討に乗り出せば、エジプト人が黙って見 ているとは思えなかった。

エジプト人はBC四千年期には三千万人の人口を擁 しており、当時としては世界最大の民族だった。
 中緯度地域の乾燥化によってサハラの熱帯雨林 が草原に変わり、小麦の作付けに適当な地になった ことが理由だった。
 それに対して、メソポタミアのスメル人は五百万人 、チュルクモンの天孫族は二百三十万人、周辺のセ ム族が一千万人、地中海人が八百万人といった人 口比率だった。
 スメル人がエジプトと本気で一戦を構えたら、例え セム族を味方に引き入れたとしても滅亡の危機にさ らされる可能性が強かった。
地中海人の侵略は海賊行為がほとんどだった。
 彼らは沿岸部に上陸すると、船から馬を降ろし、そ れに乗って内陸のスメル人都市に夜襲をかけ、略奪 に成功すると船で海に逃げるという手口を得意とし ていた。
これに手を焼いたニップール国はBC三千九百九十 五年、黒海に面したサムスンの地に「ミホ」の軍港を 開き、翌年にはエーゲ海沿岸のフェトヒエにも「アカ マ」軍港を開き、本格的な海軍を設立した。
海賊達の船の主力は二十人乗り程度のカッター船 だったが、司令船として五十トン程度のガレー船を 持っている連中もいた。
 カッター船には五、六頭の馬も乗せていた。
ニップール海軍の主力は百トンクラスの構造帆船だ った。
 小回りの点では劣ったが、圧倒的な質量の差でし だいに海賊達を駆逐していった。特に有効だった戦 法は、二隻の帆船の間に巨大なロープを張り、挟み 込んだ敵のカッター船を転覆させてしまうやり方だっ た。

BC三千七百七十年には海賊の本拠地だったロード ス島を制圧し、彼らに壊滅的な打撃を与えた。
 かくしてニップール国は地中海人の侵入を撃退す ることができたが、中緯度地域の気温上昇は長く続 き、乾燥化に拍車をかけた。

 BC三千五百年期に入るとスメル人の領土の内ア ラビア半島は南部のイエメン地方を除いて完全に砂 漠化した。他の地域も乾燥化によって食料の生産力 は低下した。
エジプトでも乾燥化は進行し、緑野だった砂漠地方 が砂漠化し、農地がナイル川周辺に限定されるよう になった。
 エジプトではそれにより人々が急激に集中化し、都 市国家は次々に統合、併合され、ギザとテーベを中 心に二極化していった。
 王には権力が集中するようになった。
 歴代の王達は自己の権力を誇示するために様々 なモニュメントを作り上げた。
 ギザでは王達が三大ピラミッドをまねて自分達の 墳墓を作ったり、スフィンクスの顔を破壊して自分の 顔に作り替えたり、さらには三大ピラミッドの周辺に 神殿を建て、あたかも自分の葬祭殿であるかのよう に装ったりした。
権力を持ったエジプトの王達は、スメルの諸都市と 交易も盛んに行った。
サハラが砂漠化しても豊かなナイル川流域を領有し ているエジプトは深刻な食料不足に陥ることもなく、 逆に半砂漠化したスメルに食料を輸出するほどだっ た。
 見返りは工芸品や医薬品、魚介類の干物などだっ た。
水準の高いスメル文化も輸入された。
 エジプトの王はチュルクモンの統御子に憧憬の念 を持ち、それまで彼らが信仰していた海神を捨て、太 陽信仰に切り替えた。
 王は自己を太陽神ラーの子孫と称するようになっ た。
エジプトとは友好関係が続いたが、スメル人の都市 国家は確実に衰退していった。
BC三二百千年期の末にはスメル文化圏の中では、 統御子のいるチュルクモンとウル・ウルク地方、イラ ンのスーサの三地方に勢力が集中するようになった 。
 ウルクはBC四千年期に中国系のアスカ人が建設 した都市で、高木結族がニップールを建設してから 数年後に完成した。
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