(p16)第三章 新ニップール国5

BC二千五百五十六年、当時の伏羲帝(フクギ)の命 を受けた蚩尤(シユウ)将軍が征討にあたり、十国の 内の九国までを征服したが、蚩尤はクーデターを起 こし伏羲を追放した。
しかしBC二千五百五十四年、蚩尤は常世国が送っ た公孫将軍によって敗死した。公孫は中国で帝位に 就き黄帝と称した。
黄帝は本拠を華北に移し、国土防衛に尽力した。同 時に漢民族や北方民族に教化政策を取り、経済・文 化的援助を与えることで融和を図った。
しかし、黄帝の死後、再び小国家が乱立し、各地で 戦闘が続けられた。しかも黄河や長江は度重なって 大洪水を起こし、農地を疲弊させた。
次に帝位に立ったセンギョクは本拠を比較的洪水被 害の少なかった黄河中流域に移し、陽の町を建設し た。
 この段階で水害で荒廃した常立市は放擲された。
 次に帝位に付いたコクは陽市の防衛に専念した。
 常世国も内陸に後退してしまった中国大陸の領土 に見切りを付け、本州支配に専念するようになった。
陽市も度々水害に遭い、北方民族の侵略を受け衰 退した。

 BC二千二百八十年、舜(シュン)帝は帝位を禹に 譲った。禹は漢人で、陽市の東部に建国した新興の 夏王朝の王だった。
 舜は禹の人物を見込み、娘婿にして彼に全権をゆ だねた。

 BC二千二百七十五年、ラーバナら天孫族は禹帝 の使者の案内で船で東行し、南シナ海から台湾海 峡を通過し、富士山麓の常世(とこよ)国に到着した 。
 常世国では日子を現尊皇(アラハバキ)と呼んだ。 現尊皇は遠来のラーバナを歓迎し、統御子の地位を 正式に認可した。
現尊皇は父祖の地である沖縄が未開族の支配下に 置かれていることを憂えていたので、統御子が現尊 皇の臣下になるという条件で沖縄領有を許可した。
ラーバナは南方の小さな島などに興味も関心もなく 気乗りしなかったが、現尊皇の機嫌を損なわないた めと、老臣達の、「くれるものは遠慮なくもらっておき ましょう」という忠告を聞き入れて拝領することにした 。
ラーバナは従弟のオモダルを沖縄王に任命して、天 孫族の三割を付き従えさせ、沖縄に送り込んだ。軍 船や物資、労働者などの調達は全て常世国の援助 で行われた。
海退によって沖縄諸島はかなりの陸地を回復してい た。
 島には薩南諸島を渡ってきた縄文人とマレー系の 海洋民族が住んでいた。
彼らは原始的な集落を営んでおり、漁労・採集・根菜 農業を営んでいた。
 諸島中最大の沖縄本島は、先住民達が上陸した オモダル一行に警戒してと一戦を構える様相だった ので、オモダルは人口の少なかった石垣島の山麓 部に王城を構え、そこを拠点に本島征服を試みるこ とにした。

BC二千二百七十四年、常世国を辞去したラーバナ は夏の軍船に乗って黄海を渡り、黄河を遡上して、 夏国の首都開封に到着した。
禹帝もラーバナを歓待した。ラーバナの統御子(スメ ラミコ)の地位と、禹の帝(テイ)の地位は同格である とし、二人は義兄弟の契りを結んだ。
禹帝が天孫族に期待したのは医療技術だった。
 中国大陸は民族の交流が活発であるのに加えて 湿潤な気候が災いして風土病や伝染病が蔓延して おり、洪水の被害もさることながら、働き手の病死も 深刻な問題だった。また乳児死亡率も極端に高く、 夫婦で十人子供を作っても三人成人すれば幸運だ と言われていたほどだった。
夏国のみならず他の中国諸国にとっても常世国の 医薬品は垂涎の的だった。
 ハラ国の医学も優れていたが常世国には及ばず、 ハラ国使節の最大の目的は医薬品の調達だった。
 当時常世国では抗生物質の製法が伝承されてお り、細菌に侵されることがなかったために、国民の寿 命は周辺諸国に較べて著しく長かった。
 常世国は医薬品を重要な戦略物資と見ており、高 価な値段で輸出はしたものの製法に関してはその 流出を拒んだ。
 禹王は天孫族に恩を得ることによって、黄帝以来 途絶えてしまった伝承の医療技術の復活を目指した 。
 あわよくば、不老長寿の薬と信じられていた抗生 物質の製法も入手できるのではないかと期待した。
 天孫族が持ち込んだテクノロジーの内、特に農業 と医術が中国人に尊ばれた。天孫族は抗生物質の 製法を失っていたが、水銀と硫黄による抗菌剤を開 発していた。
 この薬は中国では「金丹」と呼ばれ尊重された。
 天孫族の農業技術者は神農と呼ばれるようになり 、夏の農民からは統御子であるラーバナよりも尊敬 された。
禹帝はラーバナに泰山周辺の領土を与え、ニップー ル国を復活させた。
 ラーバナは曲阜に王城を築き山戸(ヤマト)市とし た。ラーバナはBC二千二百六十五年に没した。
禹帝はラーバナに泰山府君の称号を送り、御霊を泰 山に祭った。
夏王朝は長江流域に版図を伸ばした。夏王朝の形 態は都市国家の集合体だったが、BC一千七百年 期にさしかかると、黄河流域に遊牧民族が定住し、 商(殷)という国を作った。
商は誕生した当初は夏に対して従属していたが、文 化を吸収していく内に次第に勢力の範囲を南方に伸 ばし、軍事的に夏の領土を侵し始めた。

BC一千四百年期になると、黄河下流地域以外は全 て商の軍門に下った。
 比較的寛容な政策を取っていた夏王朝に対し、商 王朝は高圧的な専制国家だった。征服された民族 は奴隷にされた。
 四方を平野に囲まれた山戸周辺は防衛上難点が 多く、数十倍の兵力を有する商王朝と軍事的に対決 するのは不利だった。
 天孫族は再び中国を離れる決断に迫られた。
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