(p17) 第四章 高天原 1

BC一千三百八十六年ニップール国は王城の放棄を 決意し、黄海の対岸にある朝鮮半島に兵を送り南部 地域を制圧した。
統御子のアヤは伽耶山の麓に新都を建設し、BC一 千三百七十六年に完成し、高天原(チュルクモンガ ハラ)と名付けた。
当時の朝鮮半島は商王朝の影響を受けておらず、 北方から半島に侵入した朝鮮人とワニ族というポリ ネシア系の海洋民族が混在していた。
 ワニ族は対馬海流に乗って台湾からやって来た。 彼らは鮫をトーテムとするシャーマニズムを信仰して いた。
 彼らは漁労と原始的な農耕をなりわいとしており、 小規模な部族国家を作っていたが、内陸に居住して いた朝鮮人部族の攻撃に苦しんでいた。
天孫族は攻撃的な朝鮮人部族を北方に追放し、比 較的従順なワニ族に対しては労働力として使用する ために保護する政策をとった。
朝鮮人はもともとシベリア東部で狩猟生活を営んで いたが、BC三千年期に西方からの遊牧民と接触し て、遊牧の技術を学んだ。BC二千年頃には満州・ 沿海州に進出し中国人と接触して粟・稗を中心とす る農業を覚えた。
かつての教化した民族からしっぺ返しをされた苦い 経験から、天孫族は排他的な思想を持つようになっ た。
 天孫族は人口的に圧倒的に少数だったが、比較 的未開の朝鮮人に対しては軍事的に優位だったの で、領土内に侵入した朝鮮人の部族に対しては武 力で排除した。
この王朝は山戸(ヤマト)王朝と呼ばれた。排他的な 性格が効を奏して約千年間は平和を保つことができ た。
その間、部族抗争を繰り返していただけだった朝鮮 民族も次第に中国文明の影響を受け国家形成をす るようになった。
 しかし、戦国時代だった中国では領土拡張のため に朝鮮半島に目を付ける武将も現れ、朝鮮人の部 族国家は中国人の支配に屈した。中国人によってB C三百年期には箕子(キシ)朝鮮が成立し、BC百九 十四年には衛氏(エイシ)朝鮮国が起こった。
これらは何れも地域国家の段階で朝鮮半島全体に 影響を与えるものではなかった。
中国もBC二百二十一年秦帝国が成立すると、周辺 地域の緊迫が高まった。
秦は朝鮮半島に軍事力を行使する前にあっけなく滅 んだが、次に成立した漢帝国はより強力な軍事力で 周辺地域の領土を侵し始めた。
漢にとって最大の敵である匈奴との問題が解決した BC百二十一年以降、積極的に朝鮮半島に侵入して 征服活動をした。
 朝鮮人や中国人の作った国家は次々と漢の軍門 に下った。朝鮮半島は山戸王朝の支配する南部地 域以外は漢帝国の領土となった。
漢はさらに南下して山戸王朝とも交戦した。山戸王 朝は物量的には不利だったが、海軍力には長じて いた。
 さらに漢軍の知らない火薬兵器などを持っていた ために漢による征服は免れた。

BC百二十年、高天原にいた統御子はカシコネとい う名前だった。
山戸王朝にはカシコネの甥に当たる兄弟の将軍が いた。
 兄をイザナギ、弟をイザナミと言った。
漢による外圧を愁えたカシコネは二人の将軍にさら なる新領土開拓を命じた。
山戸王朝が狙った領土は日本列島だった。BC百五 十年にそれまで日本列島全土を支配していた常世 国が滅亡し、以後は群雄割拠の状態が続いていた 。
当時の日本列島の勢力分布は次のようになってい た。
 台湾の北部と沖縄諸島、奄美列島それに屋久島、 種子島、五島列島はオモダルが開いた於茂登王朝 が支配していた。
 もともと同族である両王朝交流は盛んで、王族間 も姻戚関係にあった。
 南九州にはマレー系の隼人国があった。隼人(ハ ヤト)族はハヤブサをトーテムとする一族で、ポリネ シア系のワニ族ともに南方から渡来した海洋民族だ った。
 中部九州にはクメール系の隅(クマ)族が隅国を作 り、隼人国と対立していた。
隅族はBC七百年期にベトナムから中国大陸に進出 し、越(エツ)国の一支族になった。
 BC六百五十四年に台湾に上陸し支配を目指した が、すでに台湾は於茂登王朝が進出しており、交戦 したが敗北した。
 於茂登王朝は台湾経営に熱心ではなく雪山以南 の地には進出しなかったので、隅族は於茂登王朝 に朝貢して台中地方に根拠を持った。

BC三百三十四年に越国が楚国に滅ぼされると、隅 族の主流は朝鮮半島の泰安半島に逃れた。
 しかし、朝鮮半島は北部に箕子朝鮮国があり、南 部には山戸王朝が支配していたので、隅族は両王 朝に朝貢しながら肩身の狭い思いを強いられた。

BC二百年代に入ると、一部の勢力が常世国の弱体 化に乗じて九州の伊万里地方に渡来し根拠を持っ た。
 九州に渡った隅族は他の弥生系の氏族を駆逐し ながら発展し、BC二百五十年期には筑紫・熊本平 野を支配下におさめ、九州地方最大の豪族になった 。

 BC二百三十四年には宗族の菊池(クコッチ)氏が 九州に渡り、熊本平野を本拠地とした。
 常世国は菊池氏を中部九州太守に任命し融和を 図った。菊池氏も常世国とことを構えるのは得策で ないと考えたので臣従の礼をつくし、九州中部の実 質的支配を続けた。
一方、台湾に植民した隅族は現地人のマレー系部 族国家と頻繁に摩擦をおこし、また風土病や農業の 失敗などで破綻状態になった。
 そこで彼らは植民地を於茂登王朝に割譲し、庇護 を求めた。
 於茂登王朝は彼らに久米島への移住を認めた。し かし、久米島は狭く土地も痩せていたので、彼らの 大半は九州へ移住していった。

BC百五十年に常世国が滅亡すると、隅族は正式に 独立し対馬を占領した。
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