(p07)第一章 黎明紀3
カーリー国が深刻な宗教対立によって衰退したので 、アメ国がアスカ人の都市国家中最も興隆した国に
なった。 数多く誕生した御子の中でアメの御子である「御中 主」が最も権威があるという暗黙事項が確立した。
アメ国では、最高神はアメの神、第二神が高木の 神、第三神がカリ神という序列が確定した。
高木結の神官としての地位も天の御中主に次ぐ地 位が保証された。
カーリー国ではカリ神の神官枯神結(カリムスヒ)が 最高位として君臨した。
BC五千百三十二年、カンベイ湾に大津波が襲った 。 再び海進が始まったのだ。多くの耕作地が流失し
、良港も破壊された。 高木結族は漁労中心だったので、港の喪失は死
活問題だった。部族会議の結果、衰退したアメ国を あきらめ遠洋漁業基地のあるメソポタミアの地に移
住することに決められた。 そこには農業に適した緑野が広がっていた。当時は
ハンマール湖あたりまで海進しており、ティグリス・ユ ーフラテス川は河口が二百キロほど離れていた。
原住民のセム族は新石器時代に達しており、原始 的な部族国家を形成していた。彼らは農業も理解し
ており、すでに小麦栽培も行われていた。 BC五千二十九年冬、高木結族は数百隻の船団に
よって大航海に出発し、約一月でティグリス川河口 に到達した。
高木結族の人口は一万人足らずだったので、数十 万人に及ぶ周辺のセム族と対立することは好ましく
ないと判断し、彼らとは友好的に接触する努力がな された。 圧倒的に優勢な武力を行使したりはせず、医療・
農業・漁業の技術などを提供することによって、セム 族と友好な関係を維持することに成功した。
高御結一族は当初ティグリス川河口にあった漁業基 地を根拠地とし都市の建設を計画したが、その辺り
はセム族の部族国家が密集していたので、農地を 確保するために荒野が多く人口の希薄なユーフラテ
ス川河口に候補地を求めた。 BC五千百二十五年には都市が完成した。周辺の
山から丹砂が採掘されたので、この都市国家は丹 土古(ニップール)国と呼ばれた。
アメ国が衰退したことによって、アスカ人の中心は カーリー国に戻っていた。
カーリー国とニップールとは直線距離で六千キロも 離れていたが、影響力が存在した。アスカ人が航海
術に長けていたことが理由である。 カーリー国では、凄(スサ)と呼ばれる神を信奉する
勢力が力を強めていた。 カリ神は民間に伝承されていく内にさまざまな分身
が存在するするようになった。 その内の破壊に関わる神性をスサの神と呼ぶよう
になった。 保守派はカリ神を唯一絶対とあがめていたので、 分身の存在を否定した。保守派はカーリー国の政治
実権を握り、専横的な政策によって、利益を内輪で 配分していた。
BC五千百二十年、その配分から漏れた新興商人 勢力や若手の軍人達がスサ神をかつぎだしクーデタ
ーを起こしたが失敗し、スサ派は追放された。 追放されたスサ派はアメ国を頼って移動したが、アメ
国の指導者達はカーリー国といざこざを起こすのを 恐れ拒絶した。
スサ派はアメ国の周辺に居座り、国境付近の治安 が悪化したので、御中主は彼らを追い払うために、
ニップール国に受け入れを要請する使者を送った。 ニップール国としても国家建設に当たりアメ国から支
援を受けていたので無下には断れなかったが、異教 徒を受け入れる気にもなれなかった。
そこでBC五千百十八年、イランのカルヘ川中流に あったアスカ人の植民都市を整備してスサ派に提供
することにした。 翌年スサ派の人民は大挙して移住してきてその町を
「スーサ」と名付けた。 ニップール国の都市計画は順調に進み、周辺の部
族国家に多大な影響を与えた。 ニップール国では領土の保全の意味合いもあって、
セム族の王族の子弟を人質として受け入れ、彼らに 教育を施した。
遊牧と原始的な農業に頼っていたセム族にとって 、灌漑農法や構造船による底引き網漁法などは驚
異だった。 セム族は漁船に祭られていた高木の神を「エンキ」と
称した。 セム族達は動物蛋白に不足しており、それに起因 する風土病に悩まされていた。
気候変動による食肉動物の激減により狩猟など数 百年前からままならず、遊牧による食肉の供給も微
々たるものだった。 彼らは高木結族による定置網や底引き網によって
無尽蔵に供給される魚を見て、それをエンキ神の恵 みと解釈した。
エンキはもともとセム族の中で天から降臨した魚の 神という伝承があり、その観念が高木の神に投影さ
れたものだった。 ニップール国はセム族に魚を供給してやる見返りと
して、船や建物の材料となる材木や開墾・銅鉱山の 採掘のための労働力の提供を要求した。
武力に優れたセム族の若者は傭兵として採用され た。 ニップール国では銅の副産物として採れる銀を貨幣
として採用していた。 アスカ人の間では伝統的にイモ貝が貨幣として使
われていたが、ニップール国ではイモ貝が採取でき なかった。 金や銀は真珠・ルビーなどの宝石とともに準貨幣
としてインドでも通用していた。 貨幣の概念は周辺のセム族にも伝わり、結果として
経済的に彼らを拘束することになった。 |