(p05)第一章 黎明紀1

氷河期はBC一万二千年ごろに終わり、気候は温暖 化し海進が始まった。
海進は徐々に進行したのではなく、ある年の春、突 然大津波となって押し寄せた。BC六千年までの期 間に大津波は数次に渡って押し寄せ、アスカ文明は 深刻な打撃を被った。BC六千八十九年の大洪水で 東シナ海大陸は完全に水没し、人々は中国大陸奥 地やスイジン島から分離した本州島・九州島に逃れ た。栄華を誇った都市は破壊され、国家は消滅した 。文化は退化し、BC一万六千年期以前に戻ったよ うな様相になった。
 気温の上昇にともない高地の畑作地も凶作に見ま われた。耕作を放棄した土地はジャングルと化した 。
 南方の地域は高温多湿になり今まで経験したこと のない疫病も流行した。
BC八千年期には中国大陸は大国家が滅亡し、群 小国家間の抗争が激化した。

BC六千五百四十四年、栄華を誇っていたニライ島 やカナイ島も水没した。ムーイガ島は山間部が多か ったので水没をまぬがれたが石垣島と西表島に分 断した。
 琉球諸島はわずかばかりの山岳地帯がかろうじて 水面に浮上していた。
ニライ島とカナイ島から沖縄本島に逃れたムイジン 族は最後の決断に迫られていた。
水没を免れたわずかな耕地は避難民達を養うことが できなかった。
避難民の多くはニライ島カナイ島から逃れてきた民 衆であり、沖縄本島の地元勢力とのいさかいも頻発 した。

BC六千五百四十三年、日子は託宣を行い、御子に 中国大陸へ移住するよう命じた。
ニライ島とカナイ島の生き残り勢力は五万人ほどだ ったが、御子を中心とする集団はその内の一万人を 引き連れて、中国大陸にあった都市「クニの常立」に 渡海した。
 常立とは「都市」のことで、「クニ」は特定の行政地 域と指した言葉だったので、「クニの常立」は植民都 市という意味だった。
 二万人ほどが日子とともに沖縄本島の王城「アメ の常立」に残留し、残りは、奄美大島・九州に一万 人、台湾に一万人移住した。「アメ」は「中央」を表す 言葉だった。
 台湾は中心地の基隆港が洪水で壊滅し、平野部 も水没していたので、移住した人民は凄惨な耐乏生 活を強いられた。
御子が移住したクニの常立は単に「常立」と呼ばれ た。
 その場所は現在の寧波の近郊にあり、BC七千二 百十一年にニライ人によって建設された。
 常立は海進以前は内陸に位置していたため、洪水 などの被害からまむがれることができた。混乱の中 であらかたの都市が衰退していく中で常立は勢力を 維持することに成功していた。
常立の為政者はニライ島崩壊に便乗して、独立をめ ざしていたので、宗主の受け入れに難色を示した。
 それでなくても、水没した東シナ海大陸から逃れて きたアスカ人の各部族が周辺にたむろしており、海 進時に内陸だったために災害を免れた常立の富を ねらっていた。
このような状況でニライ島・カナイ島の避難民を受け 入れると、更なる混乱を引き起こすことが予想された 。

BC六千五百四十二年、御子の率いる船団は、常立 の五十キロ南方にある三門付近の海岸に到着した 。
 三門はわずかな漁民が生活する寒村だった。そこ に上陸した御子の一行は陣営を築き、後続隊を待っ た。彼らの乗った船は、五十人ほど収容できるジャン クだった。風のないときには櫂を使用した。
御子一行が陣営を築くと、周辺にいたアスカ人系の 各部族が参集してきた。
彼らのほとんどは常立の排他的対応に怒りを覚えて おり、この際御子を担ぎ出して、常立に圧力を加えよ うと考えていた。
御子のもとに参集したアスカ人の族長会議が開か れ、御子をアスカ人の盟主に決めた。
参集したアスカ人の総数は十万人を超えた。当時の 常立の総人口は周辺の農村を加えて二十万人ほど だった。
 二十万人の中には、消失地域から避難してきた住 民が七万人ほどいた。彼らの多くは下層労働者とし て冷遇されていたので、この期に御子を支持する様 相を見せた。
常立の為政者は御子の勢力を軍事的に制圧する自 信がなかったので、御子に対して、自国の領土を割 譲する条件を提示した。提供された場所はチェンタン 川の河口地域、現在の抗州周辺だった。

 BC六千五百四十年、御子を長に戴くアスカ人はそ こにニライカナイ国を作った。
 国土の全域が湿潤な沼沢地だったので水稲栽培 に適しているように思われたが、実際に移住してみ ると、ヒルや毒蛇・毒虫が多く、マラリヤなどの伝染 病がはびこっている地域だった。
また隣接する山岳部には未開の原始部族が生息し ており、夜陰にまぎれて食料の略奪行為などをした 。
ニライカナイ国は総力を挙げて開墾に取り組み農地 の確保に努めたが、流入してくる避難民が後を絶た ず、慢性的な食料不足に悩まされた。

 BC六千五百三十七年、常立の為政者が死亡し、 内政が混乱した期に乗じてニライカナイ軍は常立を 攻略した。常立の内部にも御子を待望する声があり 、比較的簡単に制圧に成功した。
ニライカナイは常立を吸収し、人口は三十万人を越 えた。
避難民の流入は続き、食料不足は改善されなかっ た。
 常立を攻略しても生活改善がなされなかったので 、民衆の不満はつのった。
 御子はこれ以上の避難民受け入れに限界を感じ、 新たに受け入れ先となる植民地を探索させることに した。
インドで探索活動をしていた先見隊がガンジス川中 流域にある現在のパトナ近郊にあったバン国を発見 した。バン国は現在では海から一千キロも離れた場 所にあるが、当時は海進のため、比較的海に近い 河口の国だった。
注: 文字用の領域がありません!




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