(p11)第二章 統御子4
BC二千三百五十六年、サルゴンはウルを滅ぼし、 BC二千三百五十四年にはウルク王となったルガル
ザゲシを撃破し、宿敵のウルクを滅ぼし、メソポタミ ア全土を手中に納めた。
余勢を駆ってアッカド軍はチュルクモン攻略を開始し た。 後方の愁いがなくなった今、アッカド軍は全勢力を
挙げてチュルクモンへ軍隊を差し向けることができた 。 地中海ではクレタ島を中心にミノス王朝が成立し、弱
体化したニップール国に向かって侵入を開始した。 時の統御子である殿氏(トノジ)はエジプトの援助を
期待したが、第五王朝のネフェルイルカラー王は落 ち目のニップール国よりもアッカド帝国の方に好意的
対応を示した。 またミノス王朝も要領よくエジプトに朝貢外交をして
いたので、殿氏の期待は一蹴された。それどころか 、エジプトはアッカドと同盟してチュルクモンを攻略す
る構えを見せた。 BC二千三百三十七年、ニップール国のメソポタミア
最後の拠点都市カディシュがアッカド軍によって陥落 し、翌年レバノンにあった港湾都市ウガリットがミノス
海軍によって壊滅した。 BC二千三百三十三年、チュルクモン入口の要塞都
市カルケミッシュがアッカド軍に包囲され深刻な打撃 を受けた。
国民の動揺は深まり、権力争いも頻発した。殿氏の 権威は低下し、代わって軍人の発言権が増した。
BC二千三百二十八年、王都のチュルクモンで軍 事クーデターが起こり、王都地区司令官ハツがチュ
ルクモン全域の支配権を握った。ハツは非天孫族系 のスメル人だったが、統御子一族の娘と婚姻し軍人
として頭角を現していた。 もともと権力欲の強かったハツは、腐敗の激しかっ
た統御子一族の高官達に徹底した賄賂作戦を取り 順調に出世していった。地区司令官に就任し王都の
軍事権力を掌握した途端、掌を返すようにクーデタ ーを起こし、殿氏を暗殺し、一族を国外に追放した。
敗北した統御子一族は生き残った殿氏の娘の殿 女を盟主にいただき、団結を図った。殿女は嗣山戸
(チヤマト)と呼ばれるようになり、彼女に忠誠を誓っ ていた親衛隊四千人を率いて植民地だったアルメニ
ア方面に脱出した。 ハツはチュルクモンの王位に就き、首都名をヤマト
からハッツサスに変更しハッツ帝国を設立した。 ハッツ帝国は二百年ほど持ちこたえたが、西方より
侵入したアーリア人のヒッタイトにより滅ぼされた。 アルメニアは当時ミヌ国と呼ばれており、統御子の
親族が統治していた。 チヤマト軍はそこを根拠地に亡命政権を作り、捲土
重来を期したが、ミヌ国側はいざこざに巻き込まれる のを恐れ、冷淡な対応をした。
ミヌ国の司政官はハッツ帝国にもアッカド帝国にも 恭順の意を示し、使者を派遣していた。
激怒した統御子一族はチヤマト軍にミヌ国の首都エ レブニに攻撃するよう命じた。
ミヌ国側は七千人の兵力を持っていたが、慎重な篭 城作戦を取り城門を閉ざした。
チヤマト軍は一月間城を包囲したが、その間に千 人ほどが離脱してしまい軍の士気は低下する一方
だったので、やむなく退却することにした。 チヤマト軍はミヌ国領内の村々で略奪を重ねながら
南下し、BC二千三百二十七年、スーサ国に到着し た。 スーサ国はアッカド帝国と交戦中だったので、チヤ
マト軍を友好的に迎え入れた。 統御子一族はスーサ国で客人待遇を受けたが、居
心地はあまりよくはなかった。 チヤマト軍はスーサ国軍に吸収され、前線に駆り
出されて、多くの将兵を失った。
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